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第一章 灰色の日々
アベルの最初の記憶は、ヒステリックに泣き叫び父を責める母に、父が扉を閉め部屋から出ていくところで始まる。
泣いた母の顔にハンカチを当てようと伸ばした手は、無情にも振り払われた。
息子に向けられたまなざしには、愛情のひとかけらもないように見えたが、それは生涯変わることはなかった。
「汚い手でさわらないで! あの女そっくりの目で見られるだけで、虫酸が走るわ」
思い切り突き飛ばされ、床に転がった幼子を見かねた執事が抱きかかえ、母から引き離す。
まだ幼いアベルには、母の発言の意味はわからなかったが、自分が激しく拒絶されたという悲しみだけは、心に長く影を落とした。
「お前はお父様が、下賤な女に産ませて、金貨十枚で買い取ってきたのよ。お前は捨てられたの」
ぼんやりと見上げるアベルに冷たい言葉の雨が降る。
「その目はなに。私を憎んでいるの? お前を産んだ母親のところへ行く? お前を売った人間がお前を受け入れるはずがないわ」
二人きりになると、蔑みの言葉を吐き出す母を前に、アベルの世界は靄(もや)がかかったように現実味を失った。
おまけに病弱だったから、体調を崩すたびに母の言う呪いのせいなのではないかという気がした。
母は夫への憎しみのすべてをなぜか息子にぶつけているようだった。
彼は容貌だけなら確かに父によく似ていた。
夫の不実は世間ではありふれた不幸だったが、母にはどうしても受け入れがたいことだったようだ。
子供というのはどんな環境にいても、その柔軟さゆえに受け入れ適応してしまうものらしい。
アベルも、この悲しく歪んだ母の存在と自分の境遇を受け入れていた。
決定的に母が壊れたのがいつかはわからないが、物心がついた頃にはもう母という存在は、恐ろしいだけの存在だった。
孤独をもてあまし、庭で見つけた子猫にこっそり邸の裏で餌をあげていた。
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