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「莉乃先輩~、これ明日の企画会議に必要な資料でした。どうしたらいいですか?」
壁掛け時計を確認すると、あと数分で定時退社の時刻。
帰る準備を整えている社員もいる中、両手を合わせて体をくねらせながら、わたしに声を掛けてきたのは後輩の佐伯知佳。彼女は入社一年目の新人で、わたしが指導係を担当している。
彼女の話を聞くと、どうやら今日中に仕上げなければならない資料作成が終わってないらしい。
「……それは残業してやらないといけないんじゃない?」
「そうですよね。でもぉ、実は母が体調崩しちゃって……今日残業厳しめなんですぅ」
佐伯さんは眉を八の字に下げて、さらに体をくねらせた。
「そっか。終わってないのはどれ?」
「え、先輩。もしかして代わりに残業してくれるんですぅ? さっすが優しい!」
おだてられても全く嬉しくないのは、佐伯さんに残業を押し付けられることを、数えきれないくらい経験しているからだ。
もっと前もって言ってくれれば、対処できることもあるのに、彼女はいつもギリギリになって声をかけてくる。
「佐伯さん、何回も言ってると思うんだけど、急ぎの仕事が終わらなそうだと思ったら、もっと早めに声を掛けてもらえる? そしたら、就業時間内に手伝えることもあると思うんだ」
「だって~。莉乃先輩忙しそうにしてたから、声かけずらくって……」
「全然声かけてもらえた方がいいからさ。今度からは、もう少し早めに言おうね?」
「はーい。共有フォルダに入れときましたんで!よろしくお願いします~」
引継ぎの準備は万端だったようで、にこやかな笑顔でそそくさと帰り支度をすると、振り返りもせず退社していった。
それにしても、佐伯さんのお母さんはよく体調を崩す。月の半分は体調不良になっている気がする。
本当に母親の体調不良なのかと疑いの念に駆られたが、人を疑うのはよくない。そう思いなおし、自分の中に芽生えた疑心を振り払った。
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