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#9 暴力者アレキサンダーの仕事
魔界の朝、正確には眷属の朝は早い。早朝四時、傲慢地域の中心に一台の車が走り込む。その車は現世で見ることは殆どないであろう、旧式のものだった。この旧式に乗るのはアレキサンダー、この男は傲慢地域の真ん中、中枢、傲慢の塔に向かっている。傲慢の塔はこの地域を収めるベリアルの城であり、支配の象徴となるものでそこに勤める者のほとんどは上級悪魔である。アレキサンダーの目には傲慢地域の市街地を抜けた草原、そこから近づいてくる巨大な壁、その壁のトンネルが入る。トンネルに入るとそのまま塔の駐車場まで辿り着くのだ。
駐車場に降りたアレキサンダーは、自分の職場へ向かう方向へ足を動かす。周りにちらほらと留まる塔の職員たちの車はアレキサンダーのものとは比べ物にならない高級なものばかりだった。だが、それらも現世ではもう見られない。アレキサンダーはそんな車たちを横目に、最近設置されたエレベーターに乗り込んだ。エレベーターは強欲のアマイモンの提言でつけられたもので、アレキサンダーだけではなく他の悪魔たち、特に飛べない元人間の悪魔たちは歓喜していたのを、アレキサンダーは覚えている。
アレキサンダーの職場は高く、エレベーターでも少し時間がかかった。エレベーターがアレキサンダーの職場の階にたどり着くと、降りて自分の部屋に向かう。向かった先のドアには「秘書室」と書かれていた。アレキサンダーはドアの表記を確認し、懐の鍵で開け中に入っていった。中は膨大な傲慢地域の記録を保存するファイルや、アレキサンダー宛に届いた堕天使からの報告が無造作に積まれている。秘書室というより資料室とも取れるこの部屋でも、デスク周りだけは整然としている。これはアレキサンダーの死ぬ前からの習慣のようなものだ。席につき時計を確認する。時計の針は五時過ぎを指しており、ベリアルが隣の眷属室にやってくるまで3時間ほど猶予がある。その間に膨大な量の書類を片付けていく。まず、一番古い二日前の報告から目を通す。色欲地域に跨る巨大繁華街の違法薬局の対応、増えていく罪人の管理体制の見直しについて、罪人を下級悪魔にする基準の改訂案……、本来ならばベリアルへ直接送られるものばかりだが、仕方がない。全ての堕天使たちはベリアルを畏れている。その気持ちはアレキサンダーにも理解できる。アレキサンダーは一呼吸おくと、書類を読み込みベリアルに報告する内容をまとめ、これらの送り主である堕天使たちへの返事を書いていった。
アレキサンダーにとって時間の流れは早い。最後の手紙に堕天使の名を書いた瞬間、隣の眷属室に上司が入った音がした。内容はもうまとめてある。予定も作業の中で確認済みだ。アレキサンダーは書類と手帳を持ち、席を立った。
「ベリアル様、アレキサンダーでございます。」
「入れ。」
アレキサンダーのノックと呼びかけに、ベリアルは応える。その応えを確認すると、アレキサンダーは入っていった。アレキサンダーの目の前には三枚の翼で顔全体を覆い、表情も容姿も窺い知れない上司が座っていた。その上司は傲慢のベリアル、サタンの八眷属の一人であり堕天使、そして傲慢。そんな上司に対しアレキサンダーは用意したものを提示する。
「ベリアル様、本日の予定ですが各罪人エリアの視察とベルゼブブ様への報告です。馬車で各エリアを回り各責任者の堕天使から直接報告を受けます。また、堕天使からの個別報告の確認もお願いします。」
アレキサンダーはそう伝えると、先ほど用意した書類を見せる。ベリアルはそれを確認し判を押し始めた。その光景は本来アレキサンダーにあるべき光景のようだった。本来なら治安維持や制度に関する報告は秘書は受けない。ましてや、それに対する専門的な返答などはやらない。本来それはベリアルが決め、ベリアルが部下と話し合うのだ。だが、少なくとも部下はやらない。やろうとしない。だが、その気持ちはわかる。書類の判押しを済ませたベリアルは書類を脇に置く。その光景を見た瞬間、アレキサンダーの視界は真っ白になった。
「アレキサンダー、君は自分がどのような立場かわかるかい?」
ベリアルはアレキサンダーの背後に回り、顔を翼の一枚で覆ったのだ。これはアレキサンダーにとって恐怖を意味する。
「わかっております、ベリアル様。」
「ほう、君は私に拾われた。」
「はい。」
「君の罪は消えない。」
「はい。」
「君は私の元で永遠に働く。いいかい?」
「はい、ベリアル様。」
「わかればいいさ。」
ベリアルはアレキサンダーの受け答えに満足すると、視察の準備を始める。アレキサンダーはそれを確認すると、存在しないはずの心臓が痛いほど強く鼓動するのを感じながら自身も準備を始めた。
視察は全部で十エリアだ。女衒、阿諛者、沽聖者、偽善、盗賊、謀略者、離間者、隣人への暴力、自己に対する暴力、裏切者、全てのエリアに太古の昔から罪人たちが落ちている。ベリアルと共に馬車に乗っているアレキサンダーは視察の順番を確認しつつ、エリアの風景を見ていた。それぞれのエリアは罪人たちが終わらない労働をしている工場や施設、罪人たちが寝起きしているアパートで構成されている。アレキサンダーはかつての生活を微かに思い出しながら、馬車に揺らされていった。
視察中のベリアルは穏やかで、管理者である堕天使の話をよく聞いていたが堕天使たちは明らかに緊張していた。話の内容は必要最低限、何も問題はない、ベリアルがやるような大仕事が存在しないような口ぶりで、偶にアレキサンダーに申し訳なさそうな視線を送る堕天使を、アレキサンダーは哀れみの目で見ながら報告のメモをとる。メモにも気が抜けない。メモに抜けや矛盾があれば、細部まで詰めてくる。それを何度か経験してから、アレキサンダーの神経は研ぎ澄まされていった。そんなメモは、立って書くものではない。管理者の堕天使とベリアルはと自らの力で飛んで視察をするのだ。アレキサンダーにそんな力はない。そのためアレキサンダーは、ベリアルの腕に抱かれ足を浮かせながらメモをとることになっている。伸びた飼い猫を抱き上げるようにアレキサンダーを抱えるベリアルは、時折自身の膝を使って抱え直す。そんな動作に何も言えないアレキサンダーは、黙って従い足をプラプラとしながら傲慢のエリアを見下ろしていた。
そんな視察は予定通り、滞りなく終えることができた。傲慢の塔に戻ったのは魔界の夕方だった。ベリアルの強力な悪魔としての力によって傲慢地域は分厚い雲で覆われ、天界の光が指すことはない。その代わり、傲慢の塔から伸びる光の玉によって大まかな時間帯を伝えている。塔に戻った二人は自分たちの部屋の階まで上がっていく。
「アレキサンダー、メモをよこせ。ベルゼブブへの報告は私が書く。以前君に書いてもらったが、ベルゼブブにとってそれはダメらしい。はっはっはっ。」
「こちらです、ベリアル様」
アレキサンダーからメモを受け取ったベリアルは、アレキサンダーの文字をじっくり見る。メモを見るベリアルは顔の翼を退け、天使の名残を覗かせる目元を顕にする。目だけで文字を追い沈黙が走る中、アレキサンダーは緊張を隠し待つ。
「特に問題はない。これを元に書こう。一旦下がれ。」
「わかりました、ベリアル様。」
ベリアルがメモを納得したことを確認すると、アレキサンダーは犬の如く指示を聞き秘書室に下がった。
この日一番長い休憩はここから始まる。相変わらず記録ファイルと更に届いた書類に囲まれたデスクを横目に、部屋の隅に置かれた湯沸器に手を伸ばす。この湯沸器もエレベーターと同様、アマイモンの提言で設置された。水を入れてスイッチを押すだけで数分もせずに湯が手に入る、アレキサンダーが魔界に落ちた頃には考えられない代物である。アレキサンダーはこの休憩時間に魔界の紅茶を淹れる。その際に重宝し、今日も紅茶を淹れている。湯を入れたティーセットをデスクに運び、腰を掛け一息つくと、茶を啜る。啜る茶は偶然か悪戯か、昔、魔界に落ちるより前に味わったことのあるものだった。その味と独特の香りは、生前のことをアレキサンダーに思い起こさせた。
アレキサンダーは純粋悪魔ではない。元人間である。人間だった頃アレキサンダーは、幼い頃から愛称で呼んでくる両親、そして自分をこよなく愛していると思っていた婚約者とよく茶を囲い他愛のない会話を、広大な麦畑と林を目前にした中の細やかな時間を楽しんでいた。当時のアレキサンダーは若く愛情深く、両親も婚約者の女も愛していた。大戦が終わり廿年余、長閑な農場を営む両親の元で育ったアレキサンダーは地元で幼い頃から交流のあった女と結婚の約束をした。あの時のアレキサンダーは女と相思相愛だと思っていた。お互いの両親への挨拶を済まし、あとは式を挙げるだけの段階だったあの日、女が別の男と深い仲にあることを何かで知った。何で知ったかはもう覚えていない。今のアレキサンダーにはどうでもいいことだった。その後の記憶は朧げで、まるで霧のような、蜃気楼のようなものになっていた。ただ怒りにまかせ、実家の倉庫に女を連れ込み、機械のスイッチを入れて、女のつま先が消えるまで見届けたことだけは鮮明に覚えている。その日は蒸し暑い夜で、外の灯りはぽつりぽつりとあるだけで、咽帰る機械油と女の血と自身の汗の匂いが倉庫に立ち込めていた気がした。そんな匂いが鼻を満たし、ふと我に帰ったアレキサンダーへ焦燥、悲壮、両親へのどうしようもない申し訳なさ襲ってきた。その時、持ち込んでいた父の拳銃の弾がアレキサンダーの顳顬を貫いた。アレキサンダーの意識は体から消え、焦燥に満ちた顔で死んだ自分の顔、そして自分を迎えに来た悪魔をぼんやりと眺めていた。
「面白いことを思い出してるね〜。もっと思い出してくれよ。」
啜っていた茶が咽せ返る。声のした方に目を遣るとベリアルが立っていた。ベリアルは目元を翼に頑丈で囲っているものの、翼を退けている口元は満面の笑みを浮かべていた。面白いおもちゃを再発見したような雰囲気を醸すベリアルを前に、慌て気味にアレキサンダーは立つ。
「失礼しましたベリアル様、返事をせず申し訳ありません。」
「いいよいいよ〜、私の大好物を思い出してくれていればそんなことは気にしないさ。ずっと思い出してくれればいいのさ。」
「それは難しいことでございます、ベリアル様。」
「ではどうする。」
「あなたの秘書として永遠に働きます。それが契約です。」
「わかっているじゃないか。では、この報告書をベルゼブブ宛に送っておいてくれ。」
「わかりました。」
報告書を渡したベリアルは、部屋に戻って行った。これが業務終了の合図だ。アレキサンダーは配達用の使い魔を召喚し、要件を命じ放つ。これでアレキサンダーの仕事は終わった。
分厚い雲で覆われた時間帯を伝えないが、傲慢の塔の玉は夜を示していた。トンネルを抜け、帰路につくアレキサンダーは再びあの時のことを思い出す。悪魔をぼんやり眺めた後、悪魔に連れられ魔界に落ちた。その際落ちたのが傲慢の塔の元、十エリアの一つである隣人への暴力エリアで終わらない労働に従事し始めた。それからどのくらい経ったか分からなくなった頃、視察に来たベリアルに何故か気に入られエリアからの開放後秘書にされた。秘書として働く中で眷属の力を吸収し上級悪魔になり、今でもこの地位を保っている。元人間でここまで出世したのはアケーディアの眷属以来とも言われた。そんな立場だからか、一般エリアの高級住宅街で農場での両親との生活では考えられなかったような生活を送っている。それが良いのか、アレキサンダーには分からない。車を走らせた先にある自宅に到着する。魔界のよるは一層深まり、テールランプをガス灯だけが辺りを照らす。車を入れ家の中に入ると、沈黙と慣れた目で見える廊下だけが迎える。その光景をずっと見てきたアレキサンダーは特に何も感じず、シャワールームへトボトボ向かうのだった。
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