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#4屋根裏の本好きと教祖
もう幾百年前のことだろうか。その男は深い森の奥、小さな家の中で少数の信者とある試みをしていた。その男はなんと名乗っていたかは記録には残っていない。ただ、その男が存在し、ある騒動を起こしたことだけが伝わっている。
西諸国のどこか、深い森に隣接する小さな町にキャサリンという女がいた。その女は町の片隅に夫と共に暮らしていたが、子はいなかった。ただ毎日家の事をして夫の帰りを待つ。そんな生活に彼女は退屈を覚えていた。
「こんな生活なら、嫁ぐときに家の本をいくつか持ってくれば良かったわ……。友達もいないし、近所では浮いてるし……。」
キャサリンは時々、こんなことを呟く。キャサリンにとっての生活とは本を読み知りたいことを知る、そんなものだった。教会がやっている授業に参加して、色んな事を知って、友達と学び合う……。そんなことが日常だった。だが、そんな日常は永遠には続かなかった。友達も年頃になって、隣町や近所の男性と結婚し家のことだけをやる人になった。それはキャサリンも例外ではなかった。キャサリンは隣町の、父親の知り合いの息子と結婚した。その人は特に問題も無くキャサリンにとって良い人だった。だが、そんな人でもキャサリンの退屈を埋めることは出来なかった。
ある日のことだった。いつものように退屈を抱えながら市場に買い物に行ったキャサリンの耳には、いつものように人々の会話が入り込んでいた。
今日は安いよ、もうこの野菜の季節なのね、乳の出が悪いのよ、それならこれを食べるといいわ、今日も平和だな~、こらっ走らないのっ……
どの会話にも共通するのは、キャサリンには向けられていないことだ。まだこの市場で買い物出来るのは、夫が繋がりを持ちキャサリンが礼拝に参加しているからだろう。そんなことには慣れていた。さっさと家に帰ろう、そう思いながら踵返そうとしたキャサリンの耳にこんな言葉が飛び込んできた。
「近くの深い森の中に、蔵書をもつ男がいるらしいよ。」
キャサリンにとって、その言葉は“悪魔の誘惑”だった。
あの言葉が頭から離れなかったキャサリンは、家のことはほどほどに、一人森の奥へと行った。森の中は昼間でも薄暗く、時にはキャサリンを飲み込むような暗闇にも見えた。なんだか魔女か人狼がいるような、そんな気がした。キャサリンは恐怖を覚えつつも、蔵書を持つ男の下へ行こうとした。肩掛けを強く握りながら奥へ進んでいく。鴉が鳴き、枝が揺れ、どこから共無く獣の声も聞こえた。時折枝を踏み折って進むキャサリンは、自分がどこにいるのか分らなくなり始めていた。
「お嬢さん、こんなところでどうしたんだい?」
恐怖の支配の涙をこらえていたキャサリンに、夫以外の男が優しく声を掛ける。キャサリンが声の方向を向くと、黒の装束の見知らぬ男が立っていた。その男は頭を装束で多い、青白い肌に胸元に浮かぶ骨がチラリと見えていた。この男が、蔵書をもつ男だろうか?
「あのっ、本をたくさん持ってる人が……いるって聞いて……、気になってきたんです。本、好きだから……。」
「それはきっと私のことだ。私の根城に来るかい?」
涙声で語るキャサリンに、その男は応える。その言葉を聞いたキャサリンがこくりと頷くと、男は「こっちへ」と言いキャサリンを案内した。
案内された先には、小さい田舎の家がぽつんとあった。その家の煙突からは煙が上がっており、中に人が生活していることを示していた。男は家のドアを開け「入りなさい」と言う。キャサリンは促されるがまま家に入った。すると小さい台所とダイニングが目に入り、そこで縫い物をしている少女と目が合った。その少女はキャサリンより二歳ほど年が下のようにも見えた。
「お帰りなさいませ、メス様。……その方は?」
少女はキャサリンを見ながらそう言った。
「この子は私が持つ本に興味があるみたいでね。態々森に入ってまで私に会いたかったようなんだ。別に問題は無いだろう?」
少女はそう言われると、「そうですね」と言い縫い物に戻った。その様子を見たメスと呼ばれた男は、キャサリンを奥の部屋へ案内した。その部屋は男の書斎のようなものだった。確かに本はあるが一、二冊ほどある程度だった。それ以上に、キャサリンは先ほどの少女といい、この男の名前といい、分らないことだらけだった。
「本はこの上だよ。ちょっと待っててくれ。」
メスはそう言うと、踏み台に上がり天井の扉を開けた。その扉から梯子を降ろし、登って行った。登り切ったメスが「上がれるかい?」と尋ねると、キャサリンは続いて登った。登った先は屋根裏部屋だった。しかし、只の屋根裏では無かった。その屋根裏には埃一つ無く、何なら綺麗な絨毯も敷いてあった。そして壁一面の本棚には本達がぎっしりと詰まっていた。その空間はキャサリンにとって地上の楽園のように感じた。
「この本はあなたのもの?」
「そうだよ。私が集めた本達だ。読んでみるかい?」
キャサリンはその言葉は、神のもののように感じた。本を一つ取り、絨毯の上に座り開く。そこにはキャサリンの知らない世界が広がっており、夢中になるしかなかった。
気づいたら日が傾きかけていた。キャサリンはメスに森の入り口まで送って貰った。
「……また行ってもいいですか?道は覚えました。」
「勿論良いよ。君が来たいときに来れば良い。」
キャサリンの言葉に、メスは微笑みながら応える。その微笑みを見たキャサリンは満足し、街へ戻っていった。
夫が死んだ。仕事中の事故だった。キャサリンがメスと出会い半年ほど通っていた時の出来事だった。子はいない。キャサリンと街の人との繋がりは、ここで途切れた。そんなことから礼拝も行かず、市場の人に物を売るのを渋られるようになったキャサリンは最低限の物を持って町から姿を消した。目指したのはメスの家、ただそこだけだった。
夕焼けが空を支配し始めた頃、キャサリンが家を訪ねるとあの少女が出た。その少女の名はメリーと言い、この半年間数えるほどだが話をした。キャサリンの様子と荷物を見たメリーは黙ってキャサリンを入れ、メスを呼んだ。奥の部屋から出てきたメスはキャサリンの様子を見ると、何があったのか察した様だった。
「大変だったね。今日からここに住むと良い。」
その言葉にキャサリンは泣きそうになった。町では浮いて故郷の方には戻れそうにもなかったキャサリンにとって、それは神の言葉に近かった。
メスの言葉から始まったメス、メリー、キャサリンの三人の暮らしは町よりも遙かにマシだった。メリーとキャサリンは家のことをしながら刺繍や縫い物をして完成した物を別の町に売り、その町の市場で買い物をした。メリーは計算は出来るものの字の読み書きは出来ないようで、専ら屋根裏の本はキャサリンが読み漁っていた。そして本の知識に酔いしれた。こんな楽園を与えてくれたメスはキャサリンに取って神だった。キャサリンは町にいた頃、教会には行っていたが信仰心があるわけではなかった。ただ夫と町の人との繋がりを絶たない為の手段だった。ただその手段も夫が死んでから必要なくなり、今はメスを神のように崇めているような生活になっている。日が微かに差す小窓の前で、綺麗な絨毯に座って本を読む。たとえそこが屋根裏部屋であっても、キャサリンにとっては心地良い楽園であった。
「キャサリンも儀式をやってみるかい?」
メス達と暮らし初めて一年ほど経った時だった。町から帰ってきたキャサリンを、メスは“儀式”に誘ってきた。キャサリンはその“儀式”とは何かは皆目見当もつかなかった。メスはそんなキャサリンを奥の屋根裏に続く部屋に案内した。
部屋は何も変哲も無かった。そんな部屋の敷物をメスがめくると、人一人が入れそうな蓋が表われた。キャサリンは初めて屋根裏に案内された時の様な、僅かな恐怖と好奇心に心が支配されていた。メスは蓋を開け中に入っていくとキャサリンもそれに続いた。蓋の下は細い階段になっており、地下の方へ降りることが出来た。メスに続いて降りていくと、無数の蝋燭の光に照らされた空間にたどり着いた。その空間は無数の蝋燭が並べられ、蝋燭の周りには数名ほど女性らしき人々が横たわっていたり座り込んでいたりした。更に、どこからか異国の香を焚いているのか、嗅いだことのない匂いも感じた。
「今日は遂にサタン様との交信が出来る。君たちはサタン様の僕になる資格を得られるはずだ。」
メスの言葉を聞いた人達は半狂乱になり、部屋の中央から奥の方へ向かっていった。その方へ目を向けると壁にはサタンと思しき肖像画が掛けられており、その前には獣と思しき骨を木彫りの人形が囲い、その両脇には煙が微かに出ている見たことのない工芸品が置かれている台があった。キャサリンはその光景を、異様だとは思わなかった。この世には、こんな信仰もあるのかと、感激したのだ。キャサリンは生まれてから結婚しあの町に来るまで、ずっと礼拝に行っていたが心から祈ったことも神に感謝したこともなかった。その信仰に対して熱が入らず、退屈なものだった。こんなことをしているくらいなら、家で本を読んでいた方がずっとマシだとさえ思っていた。
「キャサリン。君はまだ一連の儀式をしていないから、今日は見学だけで良い。」
メスはキャサリンに声をかけ女性達の後ろに座らせる。そして女性達の前に立ち、聞き取れない言葉で呪文の様なことを呟き始めた。それが始まった瞬間、女性達は一心不乱に祈り始めた。その様子を見たメスは身体を台の方に向け、次はキャサリンでも聞き取れる言葉で語り始めた。
「我らが王、サタン様。ルシファーの追従者メスは本日貴方様の下に、二人の僕を送ります。」
その言葉が終わるとその二人と思しき女性達が煙を出す工芸品に近づき、その煙を勢いよく吸い込んだ。その瞬間、二人は苦しみだしその場に倒れ込んだ。メスはそれを確認すると、二人を隣に並べ何かを語りかけていた。キャサリンの距離からでは何を語っているかは分らなかったが、あの二人の状態が「サタン様の僕になった」ということは理解できた。その光景を見たキャサリンは、サタン様こそが、本物の神であると、そう感じた。その日から、キャサリンはメスの信徒となった。
信徒になってからの生活で、キャサリンは様々なことを知った。メスは元々サタンを崇拝する家に生まれたこと、メリーはメスの最初の信徒であること、主な信徒は町や村で爪弾きにされている女性達であること……。それらのことを知ると、キャサリンはサタンへの崇拝にのめり込んだ。こんなに自然体で崇められるものがこの世にあるものなのかと、メス以上に自分のことを理解してくれる人はいるのかと、そう思っていた。キャサリンが屋根裏で本を読んでいるとき、メスも時折一緒に読んでいた。メスが読んでいたのは専らサタン崇拝の本であったが、キャサリンが分らないことがあれば特に何も言わずにすぐ答えてくれた。キャサリンにとって今まで殆ど無かったこのやり取りが、そのやり取りをするメスその者が、心底愛おしく、尊いものだった。
やがてキャサリンも儀式に参加するようになった。儀式はサタン以外にもアスモデウスやベルゼブブと呼ばれる悪魔との交信も行っていた。その交信の中でもあの二人のように悪魔の僕になった人達はいた。そんな人達にメスは「これでサタン様の下にいける。もう傷つくことは無い」と言っていた。それを見続けたキャサリンは、いつか自分もメスにあのような言葉を掛けて貰える日が来るのだろう、と期待した。
ある日のことだった。キャサリンは稼いだお金を持っていつもどおり市場に向かった。市場ではキャサリンに話しかける人はいないが物は売って貰えた。今日はスープにしようかな、メスはよく食べてくれる、と思いながら食材を選んでいると、ふと耳にある言葉が入った。
「あの森の奥にいるって言われている魔女の、討伐をするらしいよ。」
「あの森って人がいたの?」
「いるんだってさ、それが。隣町の未亡人とかが魔女になって、夜な夜な儀式をしているんだとか……」
その言葉を聞き、すぐに家に戻った。家に戻ったキャサリンを見たメリーは驚きつつも何があったのか、大まかに予想は出来たようだった。すぐにメスが呼ばれメリーによって大まかな説明が成された。
「これはサタン様の祝福。今、私の元にいる者はルシファーの追従者メスと共にサタン様の下に行けるのだ。」
二人にそう囁いたメスと共にあの地下室へと向かった。地下室では丁度三人娘の儀式の最終段階に入っていた。三人はサタンの僕になりかけている状態で、あと一吸いでサタン様の下に行くことが出来る。メス、メリー、キャサリンは何度もこの儀式を行っており、様々な悪魔との交信を経てサタン様の下にいける許可を得ている。その為、煙を吸えばサタン様の下に行くことが出来るのだ。
地下室の扉の向こうで、バタバタと足音が聞こえる。恐らく討伐の奴らの足音だろう。そんな音が聞こえても、キャサリンの心は穏やかだった。これで今まで崇め、尊敬し、信じ続けてきた神の下へ行けることに、心の底からの幸せを感じていた。そしてメスのあの言葉を掛けて貰える。あの言葉はキャサリンにとって、人間としての最期の瞬間に貰いたい言葉であった。
二人と一緒に煙を思い切り吸い込む。その瞬間、今まで以上の酩酊、多幸感、そしてあの言葉への欲求を感じた。残る力を振りしぼり、メスの方に目をやった。キャサリンはメスの顔が目の前にあり、欲しかったあの言葉を期待した。しかし、その光景はどこにも無かった。キャサリンの薄くなっていく視界には、メリーをこの世で最も愛おしいものと同等に抱きかかえ、メリーと一つになったように横たわるメスがあり、遠のく耳には只の怒号と乱暴な足音だけが響いていた。
その後のことを、キャサリンはよく覚えている。サタン様の下へ行ける状態になったとき、残った自分と二人の抜け殻を見た。これがサタン様の下に行ける状態だと思い、感激した。しかし、そこにメスはいなかった。代わりに眼帯の男が立っていた。その男のことはメスから聞いたことがあった。サタン様の側近・ベルゼブブである。ベルゼブブに連れられ魔界に行くと、昔の、赤子の姿にされたのだ。曰く、キャサリンは今すぐサタン様の僕になるための力は無く、魔界の空気を吸い続けなければならないと告げられた。そんなことから、キャサリンは中級悪魔の夫婦の子として魔界での生活を送ることになった。
その生活を送る中で、メスのことを耳にした。メスはあの後、サタン様の下へ行き生前の行いを大変賞賛されたそうだ。そしてメスを賞賛したサタン王は、かつて削除した直属悪魔の一席を復活させ、その席にメスをおいたらしい。そのことを耳にしたキャサリンは大変悲しく思ったが、時が経つにつれメスに対して怒りを覚えるようになった。自分を勘違いさせ、最終的にはメリーを選び、挙げ句に自分を置いてサタン様の下へ行ったことに、怒ったのだ。その怒りはキャサリンを駆り立て、どうやったら上級悪魔になれるのか考え、マニュアルも作った。ここからキャサリンの新しい、キャサリンらしい人生が始まったのだった。
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