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#8バアルの慈悲、少女の苦痛
暴食と嫉妬の境界門の前に、ベルゼブブは一人で降り立った。門を起点に無限に聳え立つ高い壁は嫉妬の領域を拒むように構え、門の隙間からは漆黒に染まった力が漏れ出ている。その力はベルゼブブに纏わり付こうとするが、ベルゼブブにとっては僅かな力にも過ぎない。門には固く閉じられた錠が、中に入る者に保障はないと言わんばかりに下がっている。その錠を目にしたベルゼブブは、上着の内ポケットから鍵を取り出した。この鍵は嫉妬地域の門を開ける鍵であり、魔界で持っているのはベルゼブブとリラのみだ。しかし、リラはリヴヤタンのことは気に食わないようで専ら開けるのはベルゼブブくらいだった。ベルゼブブが門を開けると、目の前には真っ暗闇の、天界の光すら届かない漆黒の世界が広がっていた。ベルゼブブはその世界に足を踏み入れ、歩いて行った。
どのくらい歩いたかはこの世界ではわからない。同じ魔界であるはずの嫉妬地域は特殊な環境下に置かれており、ほとんどの眷属ですら足を踏み入れることができない。この環境は吸収されなければ循環されることのないリヴヤタンの嫉妬の魔力が沈澱し、下級悪魔がひと吸いすれば一気に上級悪魔になれてしまうほどの力が溜まり続けている。この環境を、魔界のルールで特殊な環境と呼ぶと決めたのはベルゼブブだった。正常な魔界の環境というのは、眷属それぞれが支配する地域に漂い眷属から放出され続ける大罪の力を、その地域に住む悪魔たちが呼吸に使い、魔術に使い、活力に使うことで悪魔の体に害のない力が程よく漂っている状態のことを指すとした。そのようなルールを作ったことにより、嫉妬地域の実質的な封印を滞りなく進めた。実際、ベルゼブブから見ても嫉妬地域の環境は危険で、それとは別の理由でも危険だった。それは、この地域の長・リヴヤタンに起因している。
ベルゼブブが進み続けると、一つの大きな球体が目に入る。その球体は遠目から見れば漆黒の塊だが、歩みを進めて近くで見ると蛇と古代魚の塊であることが視認できる。
「リヴヤタン、私だ。……バアルだ。」
その瞬間、ベルゼブブの視界は暗闇に包まれる。無数の蛇と古代魚に囲まれたのだ。ベルゼブブにとってはいつものことであり、特段驚くことではない。包み込まれてしばらくするといい、ベルゼブブの体に何か抱きつく。無数の蛇と古代魚でその正体を視認することはできないが、ベルゼブブにはその正体がすぐにわかる。ベルゼブブはそっと目を閉じ、抱きついた何かに意識を集中させる。
「バアルおじさま、また来てくださったのですね。」
可愛らしくも美しい、可憐な少女の声がベルゼブブ自身の体の内側から響く。リヴヤタンは口で話すことは難しいが、意識を彼女に集中させれば体の内での会話が可能になる。
「定例会議以来だな、リヴヤタン。」
「会議での態度はごめんなさい……。やっぱり口で話すのは難しいわ。」
「気にするな。昔に比べれば成長してるさ。ただ、無断欠席だけはやめなさい。」
「わかりました。気をつけます。」
今のリヴヤタンはとても落ち着いている、そうベルゼブブは感じていた。前回来たときは環境以外の危険な面が全面に出ており、すぐに撤退してしまった。彼女はそのことに関して気にしている様子がなく、ベルゼブブは安心する。次第に体は浮き、蛇と古代魚、リヴヤタンと一体になっていく。リヴヤタンとの会話がうまくいっている証拠だった。リヴヤタンが体を預けてくると、ベルゼブブはそれに応えるだけだ。
「おじさま、強欲地域では何が流行っているの?」
「様々なものが流行っているよ。白粉に赤い口紅、あとは装飾の多い女性服だな。君くらいの少女が好むようなものだよ。」
「そう。それは素敵ね……。」
リヴヤタンに意識を集中し、深みにまで入ったベルゼブブはリヴヤタンの動きも感知出来るようになっていた。ベルゼブブの腹の上に乗るリヴヤタンは顔を埋め始める。そして体を縮みこめ始めた。しまった……、ベルゼブブがそう思った時には遅かった。
「おじさま、なんでそんなこと知ってるの?他の女の子と一緒にいるの?酷いわ、その女呪ってやる。私よりも綺麗になるなんて許せない。」
その言葉と同時に、ベルゼブブは体が飲まれるような感覚に陥る。これはまずい、そう感じたベルゼブブは意識を自分自身へ集中させる。私はバアルゼブル、人間に対して大変慈悲深い神、それは邪神になっても変わらない……、リヴヤタンが自分を飲み込もうとした時に唱える言葉、これはベルゼブブの失敗を意味していた。嫉妬のリヴヤタン、またの名をメデューサ。彼女はかつて人間であった。それも美髪が自慢な美少女だった。街で評判の美少女、誰もが羨む美髪、それに嫉妬したのはアテネだった。アテネはただの人間だったメデューサを神の競いの場に降り立たせ、負かせた。そしてアテネを挑発した罰として姉諸共、人魚に近い怪物の姿にされたのだ。メデューサに関してはそれだけではなく、自慢の美髪は蛇に変えられた。神が人間を元に創り出した怪物、それがリヴヤタンなのだ。そしてリヴヤタンの力の源は元は天界の力、もといアテネの嫉妬の感情、いくら邪神となり今でも神だった頃の力が幾分か残っているベルゼブブでも簡単に太刀打ちできるものではない。唯一力から逃れる方法として、意識をベルゼブブ自身へ集中させるものがある。これにより一体化した体と意識が分離する。少なくとも、ベルゼブブの場合はそうだ。
言葉を唱え続けて幾時間立っただろうか。ベルゼブブはリヴヤタンから「吐き出された」。ベルゼブブがリヴヤタンに目を遣ると、吐き出してぐったり倒れ込んでいるリヴヤタン、少女がいた。このようにリヴヤタンの知りたいことは、すぐに嫉妬の感情の種になるのだ。これは彼女の意思ではなく、一種のアテネの呪いだ。周りと関われば全てが嫉妬に繋がり、まともに関わることも、美しさに対して賞賛を得ることも永遠に叶わない。そして感情の暴力に振り回され気絶する。ベルゼブブの訪問をするとき、度々このようなことが起きる。今回は少女たちの流行だったが、これですらも種になるのはベルゼブブにとって少々予想外だった。次は慎重に答えなければならない、そう考えながらベルゼブブはリヴヤタンのそばでしゃがみ込む。少女を纏っていた蛇も嫉妬の感情に振り回され萎れていた。そのためリヴヤタンの肌が顕になっていた。ベルゼブブは剥き出しになったその肌に、そっとマントをかける。マントは彼女の肌を覆い、全てを隠していた。
「また来る。」
ベルゼブブはリヴヤタンにそう囁くと、その場を離れていった。次に来るとき、あのマントがあるかどうかは分からない。そもそも慈悲をかけたところで神の力の殆どを失ったベルゼブブは、リヴヤタンを治すことも本物の悪魔にすることもできない。ただ、少しでもリヴヤタンの気持ちを受け止めて、少しでも楽になる経験を積んでいけば他の眷属と変わらない生活が送れるかもしれないと、ベルゼブブはどこかで思っている。それはベルゼブブの意思なのか、「慈悲深い神」という人間の意識によるものなのかは、ベルゼブブには分からない。しかし、行動をし受け入れようとする姿勢は本物だ。それだけが、この場で確実なものだった。
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