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風澄がテーブルを拭く手を止め、浅いため息を吐く。そんな風澄の後頭部を誰かに小突かれて、風澄は不機嫌に振り返った。
「サボらない」
風澄の後ろに居たのはトレーを手にした同僚の彩だった。このカフェバーは席数も多くないので、基本は店長と風澄、彩の三人だけで店を廻している。
風澄が素直に、ごめん、と謝ると彩がため息を吐いた。
「ため息ついて、何考えてたの? もしかしてまた、例の王子様?」
彩が笑いながらカウンターへ戻る。風澄はそれに頷いた。
彼に助けて貰ったのは数日前のことになる。なのにずっと風澄の頭からあの素敵な笑顔と、大丈夫? と掛けてくれた優しい声が離れないのだ。
そのせいで、仕事中もあの人のことを考えてばかりだ。
「だって、『推し』の声に似ててしかもカッコいいなって思ってたお客さんが、中身までパーフェクトイケメンだったんだよ、僕の頭の中お祭り騒ぎだよ」
「推しって……ASMRの配信者だっけ? 同じ名前の」
風澄が作業を再開しながら、大きく頷いて目を輝かせる。
「霞さんっていうの。程よく低いテナーボイスでね、最後に息が途切れる瞬間がもうすごくセクシーでドキドキするんだよ。そんな声でゲーム実況とかホントヤバいよ。必ずね、『ぼくの隣でおやすみ』って台詞で配信終わるんだけど、あんな声聴いて眠れるかっていつも思うんだよ、耳から妊娠しちゃうよ」
「一気に言われても聞き取れないって、いつも言ってるでしょ」
早口になってる、と彩がため息を吐く。伝えたいことが溢れてつい早口になるはオタクなので仕方ない。
「と、とにかくすごく素敵な声だから、聴いてみてよ」
「えー、私女の子だから、耳から妊娠しちゃうかもよ? いいの? 槙くん」
彩がにやにやとこちらを窺う。風澄は慌てて口を開いた。
「あー、それはダメ! だってそうなったら霞さんと彩ちゃんが結婚でしょ? 前に、歌配信してる配信者がリスナーと付き合ってるってニュースになって……やっぱりそういうのは嫌だなーって」
「好きだからこそ、みんなで共有してたいってこと?」
「そういうのもあるけど……その世界には自分と推ししかいないっていうか、現実とは違うみたいな……上手く言えないけど、それがリスナーの心理なんだよー。その配信者さんも結局辞めちゃって……恋愛は別にしてもいいと思うけど、活動辞めちゃうことがやっぱり最悪だし、だからやっぱり彩ちゃんは配信聞かないで」
真剣な顔を向けると、彩は呆れた顔をして、はいはい、と頷いた。
「そもそもね、人は耳から妊娠しません」
「いや、霞さんならもしかしたら……」
真剣な顔をする風澄に、ないから、と彩が強く返す。
その話をずっと店のカウンターで作業していた店長も聞いていたのだろう。
くすくすと笑い声が聞こえ、風澄がそちらに視線を向けた。
「今日は来てくれるといいね、風澄くんの王子様」
「はい。もう見てるだけで幸せなんで」
それはいいことだね、と穏やかに微笑む店長はいつも優しくて、店長を目当てにこの店に来る客も多い。そんな店長に彩が、いいですか? と怪訝な顔をする。
「おかしいと思いません? すぐそこにいる人なのに、見てるだけでいいなんて」
本当は王子様と恋愛したいくせに、と彩が口をはさむ。特に性癖をオープンにしているわけではないのだが、風澄の恋愛対象が同性なのは、彩と店長、一部の常連客は知っている。だからこそ、彩もそんなことを言うのだろう。
「次に王子様が来たら、話しかけておいで。お礼にドリンクサービスくらいしたらいいんじゃない?」
きっかけはあるんだから頑張れ、と笑う彩に、風澄は、できるかな、と曖昧に頷いた。
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