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その日は幹路も最後までアルコールを飲まず、風澄を待っていてくれていた。
終業後、店の前で待ってくれていた幹路の元へと向かうと、いつもの優しい笑顔で幹路が出迎えてくれる。
「お疲れ様。行こうか」
その言葉に頷いて、幹路の少し後を追うように、風澄が歩き出した。
何を話すのだろう。昨日の事なのだろうけれど、あまり生々しい話は聞きたくないな――ていうか、友達と恋人の浮気の一部始終なんて誰も聞きたくないよな……風澄がそんなことを思い、幹路の背中を見つめる。その瞬間、幹路の背中が動いて、こちらを振り返った。
「風澄くん、ずっと気にしてるだろうから、昨日の話、するね」
幹路が少し表情を硬くして風澄を見つめる。それに頷いた風澄は、幹路の隣に追いつくように少し駆け寄った。
「昨日、風澄くんに言ったように帰るつもりだったんだ。でも、清見くんに無理矢理タクシーを降ろされて……」
なんとなく、そこまでは想像ができる。酔ったと騒いで幹路を連れ出す押しの強さを持っている人だ、そのくらいは容易いだろう。
「そこで清見くんと少し話をして、戻ろうと思ったら、タクシーにスマホを落としたらしくて、そこからスマホを探して……見つかったのが、風澄くんに返信した時間なんだ」
「え……それだけ、ですか?」
想像していた答えと違って、風澄は思わず聞き返す。スマホをなくすなんて一大事だが、風澄的には少し安心してしまう。幹路はそんな風澄を見て不思議そうな顔をした。風澄がそれに慌てて、すみません、と謝る。
「僕、実は違う想像していて……もしかしたらキヨくんと、とか……」
風澄が素直に思っていたことを口にする。すると幹路が、だよね、と風澄の手をそっと握った。
「でも、その心配はしなくていいよ。俺が好きなのは風澄くんだし、誰にもこの手を譲るつもりはないし」
ぎゅっと強く手を握られ、風澄が顔を上げる。こちらを見下ろすその顔からは、嘘は見えなかった。きっと信用していいのだろう。
「でも、キヨくんと話って……」
風澄がそこまで言いかけた時だった。まきちゃん、と後ろから声が掛かり、風澄が振り返る。
そこにはスーツ姿の男性が立っていた。酔っているのだろう、ふらついた足取りでこちらに近づいてくる。
「店に行ったのに、もう閉まってるんだもん。でも、こうして会えたのは運命?」
なんて、と笑いながらこちらに近づいてくるのは、風澄にいつも絡んで来る客だ。風澄は幹路の手を握ったまま、少しだけ後退りをした。
「風澄く……風澄の知り合いですか?」
男の顔に覚えがあったのだろう。幹路は風澄を隠すように一歩前へ出ると、その客と対峙した。当然向こうは怪訝な顔をする。
「風澄って……あんたこそ、まきちゃんの、何?」
ケンカ腰になる相手に、風澄が不安を表情に出したまま幹路を見つめる。ふいに幹路の手が離れ、その代わりにその腕は風澄の腰を抱き寄せた。
「彼の仕事終わりを待って一緒に帰る関係を、わざわざ言葉にした方がいいですか?」
幹路の言い方だと、確実に相手を煽ってしまうと、勘の悪い風澄でも分かる。案の定、男は顔を真っ赤にして、お前、と低く唸るように口を開いて幹路を睨みつけた。
「この前、邪魔してきたヤツだよな? いい加減にしろよ、まきちゃんは、ああいうプレイを楽しんでるんだよ。嫌だって、やめてって、言いながらも結局笑顔なんだから」
「それ……」
「それは、あなたが客だからです。あなたのことを好ましく思っているからじゃない。むしろ、震えるくらい怖がって……出来ることなら、もう会わせたくない」
風澄の言葉を遮り、はっきりと幹路が伝える。それは風澄が伝えようとしていたこと、そのままだった。
「こっちはもう何年も店に通って、まきちゃんの好みも性格も分かってんだよ。嬉しくて震えることだってあるんだ、なあ、まきちゃん」
怖い、と本気で思った。あまりにも自分に都合よく解釈されてしまって、もうきっと何を言っても、この人の中の自分は、この人を好きだという設定になっているのだろう。それが怖い。
「そんな男放っておいて、飲みに行こう、まきちゃん」
男がこちらに手を伸ばす。風澄は首を振って幹路のシャツにしがみついた。腰を抱いていた幹路の手が風澄の肩に移動してぎゅっと抱き寄せる。
「いき、ません……」
「……こっちが下手に出てりゃいい気になって。断るって、どういうことだよ? そういうプレイは店の中だけでいいよ。ホントはオレに抱かれたいんだろ? 知ってんだよ、お前がクソがつくくらいのビッチだって」
何人も男作ってたよな、と男がこちらに視線を向ける。確かに店で出会って誘われて本気で好きになって、でも遊ばれただけだったという経験はある。そのことを言っているなら間違いというわけではないけれど、幹路の前で言われるのは悲しかった。
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