714人が本棚に入れています
本棚に追加
そうすぐに店に来てくれるなんてないだろうと思っていたのに、チャンスはその日のうちに訪れた。
噂をしていたからか、少し混雑した店に入って来たのは、風澄の推しの彼だった。一人で入って来た彼を一番に見つけた風澄は、慌てて店の入り口の方へと駆け寄る。
「い、いらっしゃいませ……」
やっぱり今日もカッコいい。今日はスーツ姿でそれもまた似合っている。
会社員かな、仕事は何だろう、仕事の時は前髪上げてるんだ、こっちも素敵――そんなふうに脳内の風澄が彼の姿に色めきだってざわざわとする。
風澄はすぐに見惚れてぼうっとしそうになる頭を目いっぱい働かせて、お一人様ですか? となんとか口にした。
「あ、はい」
「じゃあ、カウンターにご案内しますね」
どうぞ、と風澄が先に歩く。ちらりと後ろを振り返ると、その後を彼が付いて来ていた。当たり前のことなのに、自分が彼の視界に入っている、それだけでも嬉しい。
「こちらのお席どうぞ。あと……ドリンク一杯サービスさせてください」
カウンターの一番端の席に案内してから、風澄がそっとドリンクのメニュー表を手渡す。驚いた彼がこちらに視線を合わせた。
「この間のお礼です。助けていただいて、ありがとうございました」
風澄が頭を下げると、そんな大したことは、と彼がかぶりを振る。それから風澄の胸にある名札を見て、槙くん、と呼んだ。
「ホントに、大したことしてないから」
「でも、僕は嬉しかったから」
その気持ちです、と風澄が微笑むと彼は、そうか、と少し考えてから頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。槙くんのおすすめをください」
風澄にメニュー表を返しながら同じように微笑んでくれた彼に、風澄の鼓動が高く響く。
「あの、風澄って呼んでください。常連さんとかもそう呼ぶので」
「風澄くんっていうの?」
少し驚いた顔をされ、風澄が首を傾げる。それを見て、なんでもないよ、と微笑む。
「俺のことは幹路でいいよ」
よろしくね、と爽やかな笑みを貰い、風澄は、はい、と大きく返事をしてから幹路の元を離れた。そのままふらふらと店長のところへと移動する。
「店長、優しくてカッコよくて笑顔がホントに素敵な人が飲むべきカクテル作って……」
「え?」
「ドリンク名は『尊い』で」
「……は?」
風澄の突然の言葉に店長が本気で眉間にしわを寄せる。そこへ、店長無視していいですよ、と呆れた声を飛ばしたのは彩だった。
「槙くんの王子様が来ただけだから。一杯目だからモヒートあたりがいいんじゃないですか?」
彩は店長に説明したあと、風澄の頭を小突いて、店長困らせない、とため息を吐いた。
「だって、名前も教えてくれて……しかも大したことしてないとか、謙遜も出来て……あんな外も中もイケメンって、いる?」
希少生物だよ、絶滅危惧種だよ、国宝だよ、と風澄が彩に真剣な目を向けると、彩は更に大きなため息を吐いた。
「いいから仕事しろ。週末でお客さん多くてオーダー溜まってるの」
早くしろ、と彩が風澄に鋭い視線を向けると、まあまあ、と店長が穏やかな笑顔でカウンターにグラスを置いた。
「風澄くんはとにかくその王子様にこれを運んであげて。その後はちゃんと切り替えて仕事してね」
優しい笑顔を向けた店長からグラスを受け取った風澄は、はい、と大きく答えて、トレーにグラスを載せた。
カウンターの端を見やると、スマホの画面に視線を落としていたその横顔が見えた。横顔最強だな、なんて思っていると、それを人影が隠す。数人の女性客が幹路を囲むように立ち、幹路がすっかり見えなくなってしまった。
何か会話をしているようだ。きっと女性たちのほうが一緒に飲もうとでも誘っているのだろう。
やっぱり幹路ほどのイケメンは女性が放っておかない。それどころか、幹路自身だって女性としか恋愛しないかもしれない。浮かれて忘れていたけれど、自分の恋愛はマイノリティーなのだ。
儚い恋だった、と息を吐く風澄の手元で、カシャリ、と氷が融ける音がした。
今はウエイターとして、これを運ばなければいけない。風澄は女性たちが離れたタイミングで接客用の笑顔を取り出して、幹路に近づいた。
「お待たせしました。店長おすすめのモヒートです」
カウンターにコースターを置き、その上にグラスを乗せる。少し汗ばんでしまったグラスがいつもよりも冷たく感じた。
「ありがとう、美味しそうだね」
「はい、店長のカクテルはすごく美味しいですよ。僕も大好きなんです」
トレーを抱え、風澄が微笑む。幹路はそれに、へえ、と口を開いた。
「風澄くん、お酒好きなんだ」
「はい。コーヒーも紅茶も好きで……だからここで働いてるんです」
「好きなことを仕事にって、いいね」
幹路の顔に少し憂いが見えて、風澄は眉を下げた。
「幹路さんは、お仕事楽しくないですか?」
「うん……本当はやりたい仕事があったんだけど、叶わなくて。今は別の仕事しながら、そっちは趣味でやってるんだ」
憧れの仕事に就けなくても、続けているというのはすごいことだと思う。風澄は、素直に素敵だと思った。
「続けてれば、きっといつか仕事になると思います」
応援します、と風澄が微笑むと、幹路は一瞬驚いた顔をしてから、ありがとう、とこちらがお礼をしたくなるようなキレイな笑顔を向けてくれた。
最初のコメントを投稿しよう!