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槙風澄は、男運が悪い。そもそも恋愛をする能力を持ち合わせていないのではないか、と思うほどだ。
その一例をあげるなら、三年前に別れた元カレは、ストーカーになり、警察のお世話になった。二年前に交際を断わった人は、『付き合ってくれなきゃ自殺する』と喚いて通報されていた。
そして、現在。
「まきちゃん、いつもそうやって逃げようとするけど、俺の気持ち、分かってるんだろ?」
「気持ち、と言われても……仕事があるので、戻らせて貰えますか?」
風澄は勤務するカフェバーのお手洗いの前で、常連の男性客に行く手を阻まれていた。
半年ほど前から通っているこの客は風澄を気に入ったらしい。そこまではいいのだが、体のあちこちに触れて来たり、こんなふうに仕事の邪魔をするから困りものだ。
風澄が客の横を通ろうとすると、客は壁に手を付き、それを阻んだ。風澄は恐る恐る横に視線を送る。口の端を引き上げたその男の顔が怖くて、風澄の肌は総毛立った。
「まきちゃんってゲイだよね? しかもネコ。俺に抱かれてみない?」
客の体がこちらに近づく。風澄はわずかだけれど壁にぴたりと体を付けて距離を取った。
「僕、そんなこと言いましたっけ?」
「言わなくても分かる。俺、上手いよ」
きっと満足するし、次もしたくなる、と耳元でささやかれ、風澄は手で耳を塞いだ。さっきからぞわぞわと寒気が止まらなくて、思わずしゃがみ込んでしまった、その時だった。
「大丈夫ですか? 具合悪い?」
そんな優しく心地のいい柔らかな声が頭上から響き、風澄は顔を上げた。そこにはもう一人、男性が立っていた。長めの前髪をセンターで分けたその下に、眉を下げてもカッコいいと分かる顔が、こちらに視線を向けている。ラフなシャツなのにそれだけでおしゃれに見えるのは、風澄の好みど真ん中な顔のせいかもしれない。
更にその好みの顔のアップに見惚れてしまっていた風澄に、男性はもう一度、大丈夫? と声を掛ける。
「あ、あの……」
「大丈夫じゃなさそうだね。あ、そこ避けて貰えますか?」
その人は、客の男の手を掴むと、ゆっくりと降ろさせた。客が呆然としている間に風澄に近づき、手を差し伸べる。
「店員さんだよね? 店長さんのところまで付き添うから」
男性がにっこりと微笑む。その笑顔が眩しすぎて一瞬くらりと目眩がしたが、その厚意が嬉しくてそっと手を伸ばした。
「おい、その子は俺が……」
「具合が悪そうな人をただ見てただけの人には預けられません」
風澄の手を引いて立ち上がらせた彼がはっきりと客に告げる。支えられた肩からじわりと熱を持つほど、風澄はドキドキとしていた。
耳に心地よく響くその声も好きだが、こうして具合が悪そうと気付いて手を差し伸べてくれたことにも惹かれていた。
彼の言葉を聞いて、客が舌打ちしてからその場を離れる。その後ろ姿を見送ってから、風澄は、ほっ、と息を吐いた。
「よく絡まれてるよね?」
男性がふいに風澄から手を離し、そう聞いた。風澄が驚いて顔を上げる。
「もしかして……気付いてたんですか?」
「あ、えっと、見てたとかじゃないんだけど……あんなところで客と店員が話していれば、気になるよね」
「そう、ですね……ありがとうございました」
風澄が大きく頭を下げる。それに男性は、いやいや、とかぶりを振った。
「ホントはね、トイレに行きたくて、たまたま遭遇しただけなんだ」
じゃあ漏れそうだからこれで、と男性は柔らかい笑みを残して今来たところを戻っていった。その後ろ姿を見送ってから、風澄が、ほう、とため息を吐く。
「僕の王子様、中身もイケメンだった……」
彼と話ができたことに風澄は夢見心地のままで、その日の仕事はあまり役に立てなかった。
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