災いを回避するために

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 マンションに着くと、秀弥さんはワックスでセットした髪を掻き上げて言った。 「ちょい着替えてくるわ。いつも通り、適当に寛いでて」 「あ、うん。じゃあ何か飲み物でも用意するね」 「ん」  返事をしたあと、秀弥さんはウォークインクローゼットへ向かった。  彼の家は2LDKで、リビングダイニングは十二畳ぐらいある広々とした空間で、他に洋室が二つある。  一つはウォークインクローゼットを併設した寝室として、もう一つの部屋は書斎として使われている。  広々としていても、彼はこの家をきちんと使い切っていて、余っている部屋はないのだ。  そう思うと、急に転がり込んでしまって申し訳ない。  スーツケースの中身をどこにしまえばいいかもまだ分からないので、とりあえずバッグを置くとキッチンに立ってお湯を沸かし、カフェインレスコーヒーの用意をする。  ほどなくして、Tシャツにゆったりとしたリラックスパンツに着替えた秀弥さんが現れ、「お疲れさん」と私の頭を撫でた。 「ベッドはいつも通り、二人で寝ても構わないか? でかいから大丈夫と思うけど」 「うん」 「急な事だったから、まだ片づけできてなくて悪いな。明日にでもクローゼットを片づける」 「ううん、あの、本当にごめんなさい。受け入れてくれてありがとう」 「なんも」  キッチン台にもたれ掛かった彼はクシャリと私の頭を撫でたあと、腕組みして考える。 「……俺、夕貴にプロポーズすると決めたあたりから、引っ越しも考えてたんだよ。今まではただ泊まるだけで済んだけど、この家、二人で住むには狭いだろ」 「いや、十分広いと思うけど」 「そうか? 俺としては夕貴用の個室がほしいから、3LDKは必須だと思ってる」 「……そんなに気を遣ってくれなくても……」 「金の心配はするなよ。どうせならストレスなく過ごすのが一番だ。プライバシー大事。俺はそんなに物持ちじゃないから、引っ越しは比較的簡単だしな」  確かに、秀弥さんはミニマリスト……とは言わないけど、必要最低限のものしか置かないタイプだ。  一応、壁には絵画があったり、観葉植物もある。  でも小物を入れている引き出しを開けてもゴチャッとしておらず、家主ではない私でも十分どこに何があるか把握できている。  読書が好きな人だけど基本的に電子書籍で、服もスーツはこだわるけど、私服はあまり増やさないようにしている印象だ。  どうやら手持ちのアイテムの上限を決めているみたいで、新しく買ったら一番着ていない物を捨てるシステムにしているらしい。  自炊もするけれど、基本的にその日の料理に使う食材を、その日に買って帰るタイプ。  だから、引っ越ししやすいと言えばその通りだ。 「そのうち、目星をつけた物件を一緒にチェックしてくれよ。場所とか間取りとか、実家、会社からの距離とか、夕貴にもこだわるポイントはあるだろうし」 「分かった」  返事をしながら、私は湧いたお湯でコーヒーをドリップしていく。  秀弥さんは私は飲み物にミルクを入れる派だと分かっているので、無言で冷蔵庫から牛乳を出し、いつものマグカップを用意してくれていた。 「……で」  ソファに落ち着いたあと、コーヒーを一口飲んで秀弥さんが話を促してくる。 「……うん」  私はふうふうとコーヒーを冷ましてから一口飲み、頷く。  それから、少し重たい気持ちになりながら、亮の事を話した。  自分でもさっき本人から聞いたばかりで、感情の整理がついていない。  だから話しながらゆっくり順番に、頭の中で出来事や亮の心情を咀嚼し、理解していった。  すべて話し終えたあと、秀弥さんはねぎらうように私の頭を撫で、手を握った。  そのまま何か考えるように黙っていたけれど、やがて溜め息をつくと「……ん」と頷いた。 「俺はかなりクソ重たい感情で夕貴を愛していたつもりだけど、亮くんもなかなかだな。勝負や優劣の問題じゃないけど、『敵ながらあっぱれ』って感じだ。……ま、敵でもないけど」  秀弥さんは話しながら何度か頷き、微笑んだ。 「いいね、気に入った。亮くんを認めるよ」  そう言った彼の目には、自分と似た境遇を抱える亮への憐憫があった。 「似た者同士……なんて言ったら、亮くんは嫌がるだろうし『一緒にすんな』って言うだろう。……ただ、そういう愛し方しかできなかったんだな、と思うと、変な意味じゃなく、彼が愛おしく思えるよ」  いつの間にか、秀弥さんが呼ぶ「亮くん」からは、揶揄する色が消えていた。
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