3985人が本棚に入れています
本棚に追加
〝話し合い〟
それが木曜日の出来事で、俺は金曜日の昼休みに〝根回し〟をしておいた。
夕貴はソワソワしていて、親友の上田さんともコソコソ何かを話し、落ち着かない様子だ。
まぁ、あれだけの事があったら仕方がないか。
仕事中に不安げな彼女と何度か目が合ったけれど、「安心しろ」というように頷いておいた。
定時になったあと、あらかじめ用事があると課長に伝えていた俺は、板橋駅近くからタクシーに乗って、六本木にある黒鋼商事に向かった。
夕貴とは今朝、俺が高瀬に話をつけに行っている間、上田さんと飯を食いに行ってほしいと伝えた。
すぐに上田さんにメッセージを送った彼女は、『OKだって』と言っていたので安心した。
(さて、鬼退治といきますか)
黒鋼商事の前でタクシーから降りた俺は、六本木交差点近くにある高層ビルを見上げる。
ビルは低階層が商業施設になり、中階層がオフィスフロア、上はマンションになっている。
俺は〝関係者以外立ち入り禁止〟の立て札の横を通り、エレベーターホール前の壁にもたれて高瀬を待つ。
〝根回し〟した時、相手から現在の高瀬の写真を送ってもらったので、相手の容姿は分かっている。
定時を回ってエレベーターで職場から下りてくる人が増え、俺は高瀬を見逃さないように、一人一人を確認する。
やがて十六時半近くになった頃、高瀬がエレベーターから下りてきた。
彼女は俺の顔を見ると驚いたように目を見開き、立ち止まる。
「こんばんは」
俺はゆったりと高瀬に近づき、微笑みを浮かべた。
彼女は顔を引きつらせ、周囲の人に縋るような目を向ける。
「……た、助けてください。この人、ストーカーです!」
高瀬は近くにいる人に訴え、周囲の人はギョッとしたように俺を見る。
だがそう反応されるのも了解済みだ。
「それは君のほうじゃないか? 君がした事を今この場で大きな声で言ってもいいんだぞ」
少し脅すと、今度は高瀬が不審げな目で見られる番になった。
彼女は青ざめ、それから真っ赤になり、ヒステリックに叫ぶ寸前のような顔になったあと、俺の手首を掴んだ。
「……っ、来なさい!」
高瀬はそのままズンズンと表に出てしばらく歩いたあと、振り返って俺を睨んだ。
「なんのつもり?」
高瀬は夕貴や亮くんに対して優位に立っているつもりだろうが、こうして逆に攻められる事に慣れていないようだ。
弱さを抱えている者こそ、攻撃される前に誰かを攻撃しようとするし、自分は正しい事をしていると思い込んでいるから、責められる立場になると想像していないんだろう。
苛立った様子で尋ねられた俺は、パッと両手を上げて敵意がない事を示し、微笑む。
「……話をしないか?」
そう言われ、高瀬は疑い深く俺を見る。
「さっきは敵意を見せられたから、俺もそうせざるを得なかった。それでなければ、俺が一方的に悪者扱いされて、対話できずに終わってしまう。……だが俺は君と、責任能力のある大人として冷静な話し合いがしたい。内容は長谷川姉弟についてだ。俺が何を言いたいか予想しているだろうけど、一方的に君を責め立てるんじゃなくて、君側の話をちゃんと聞きたいと思ってる」
落ち着いた声音で言っても、高瀬の目の奥には強い警戒心がある。
「……君はずっと想いを押し殺してきただろう? ろくに知りもしない奴に話す筋合いはないかもしれないけど、俺はあの二人の関係者として君の気持ちを知りたい。お互いコソコソ動くのはやめて、それぞれの主張を知って、どうしたいのか要求を伝え合う、大人の話し合いをしよう」
俺はあえて、高瀬のプライドに刺さりそうな言葉を選んだ。
高瀬は認知を歪ませているいっぽうで、優等生で、一流の商社に勤める能力を持っている。
彼女には〝できる女〟という自負があるだろうし、雑踏の中でみっともなく言い合いをするなんて、プライドが許さないはずだ。
加えて自分を〝頭のおかしい女〟扱いされるのも嫌がるだろう。
だから高瀬の意志を尊重した言い方をし、〝知的な話し合い〟に誘った。
彼女はしばらく黙っていたが、溜め息をつく。
「……分かったわ。でも今後、二度とあんなふうに会社まで押しかけないで」
最初のコメントを投稿しよう!