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俺は微笑み、首を横に振る。
「じゃあ君も、俺や夕貴を探るためにうちの会社に来ないでほしい。これは取引だ。お互いに約束を守れば、君も職場で不愉快な思いをしなくて済む」
高瀬はまた敵意の籠もった目で俺を見ていたが、息を吐いてから歩き始めた。
「外でこんな話をするのは嫌だわ。適当に良さそうな店を見つけて。勿論、あなたの奢りよ」
「はいはい。そう言うと思って、個室を予約しておいたよ」
そう言ったあと、俺は少し歩いたところにある寿司懐石の店に向かった。
こんな女に高級料理をご馳走するのは避けたいが、ここで安価な店に連れていけば「私を見くびってる」と思われてしまう。
接待の基本は「あなたを尊重しています」と示すために、きちんとした店を用意する事だ。
(良さそうな店だったけど、最初で最後かな。勿体ない)
勿論、店で騒ぐつもりはないが、高瀬と話をした店に夕貴を連れていくつもりはないし、友人や仕事関係の人を連れていくのも控えたい。
美味い飯を食うには、いい思い出がある場所にしたい。それが俺のモットーだ。
心の中で呟き、俺は高瀬の歩調に合わせて夜の六本木を歩いた。
「へぇ、なかなかいいお店じゃない」
個室に案内され、スパークリングの日本酒を頼んだあと、高瀬はおしぼりで手を拭きながら言う。
まんざらでもない表情だったので、とりあえずは成功だ。
「お気に召して何よりだ」
「……簡単に自己紹介してくれる? あなたの事は大して知らないから」
嘘か本当か分からないが、確かに〝一応〟俺たちは初対面だ。名乗るのがマナーだろう。
「俺は西崎秀弥。桧物谷食品株式会社の商品企画部の課長補佐。三十二歳。長谷川夕貴さんとは、三年前から付き合ってる」
夕貴が俺に愛されていると自覚したのは最近だが、そこはぼかしておく。
あえてこちらが不利になる情報を出す必要はない。
高瀬は俺を見極めるように目を細め、息を吐くと自己紹介をする。
「私は高瀬奈々。黒鋼商事の営業部所属の二十四歳。長谷川亮くんの親友で、彼からは勘違いされて遠ざけられている」
おっとそうきたか。
根本的な認識のずれを理解し、俺は頷く。
その時、スパークリングの日本酒が運ばれてきて、とりあえず乾杯する事にした。
「大人の話し合いに」
そう言うと、高瀬は皮肉げな表情で笑い、グラスを合わせてきた。
そのあと先付から順番に料理が運ばれてきて、見た目も美しく味も一流なのに、心から楽しめないのが残念だ。
「まず、高瀬さんが学生時代からどういう感情を抱いてきたか、教えてくれる?」
尋ねると、彼女は雲丹を食べ終えたあとに目を閉じて余韻を楽しみ、息を吐いてから語り出した。
「私は亮と、中学一年生からの付き合いだったわ。エスカレーター式の進学校で、クラスメイトは比較的裕福な家庭の子が多かった。その中で亮は飛び抜けた美貌で目立っていて、女子はすぐに彼に夢中になったわ。話しかけて友達になろうとして、亮の取り合いみたいになった。……まだ子供だから、男子はそういうのを見て嫉妬したみたいね。亮は男子の間で孤立した」
彼女は溜め息をつき、テーブルの下で脚を組む。
「亮は小学五年生の時に、母親を亡くした。病死だったけど、酷く傷ついたと思う。でも彼は聡く、大人だった。泣き叫んだりしないし、行き場のない怒りや悲しみを自分の中に押し込めていた。そんな彼に女子たちが勝手に期待し、友達になるはずだった男子たちは、亮を知る前に彼を見捨てた。あんまりよね。……私はそんな彼の友達になりたかった」
高瀬の話を聞き、俺は自分の価値観が改められた事を感じた。
夕貴から亮くんの話を聞いてヤバイ奴と思ったし、高瀬が〝今も〟自分は亮くんの親友だと思っているのを聞いて、まともじゃないと思っている。
でも根本的にすべてがおかしい訳じゃない。
彼女は会社でバリバリ働いているし、周囲の人には〝若くてやり手な女性〟と思われているだろう。
夕貴の話を聞いて亮くんを被害者と思ったけど、高瀬は彼に出会わなければ、凶行を起こさなかったかもしれない。
『かもしれない』の話をしても、どうにもならないけど。
だから彼女が思っていた以上に冷静に過去を振り返るのを聞いて、少し見直した。
「母親を亡くした上に、自分のせいで〝友達〟になれたかもしれない人が、離れたり、自分に夢中になっていく。中学一年生の時点で大きなストレスを抱えた亮は、孤独を選んだ。自分を求める女子を拒否し、男子からのいじめを無視し、自分の殻に籠もった」
残念ながら亮くんのこの時期は、高瀬が一番よく知っているんだろう。
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