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――と、足音が聞こえる。
ハッとして顔を上げると、悲しそうな顔をした秀弥さんが階段を下りてきて、私の傍らに膝をついた。
そしてそっとカッターを取り上げ、私を抱き締める。
「つらかったな」
いたわる言葉を掛けられ、ブワッと涙がこみ上げた。
「うぅ……っ、う、……っ、うぅうう……っ」
私はクシャリと表情を歪ませたかと思うと、肩を震わせて秀弥さんの胸板に額を押しつけ、激しく嗚咽し始める。
「泣け。思う存分泣いていい。お前にはその権利がある」
秀弥さんは私の背中を優しくさすり、抱き寄せる。
「わた……っ、――――わた、し……っ、好きな……っ、だけ、――――なのにっ」
「ん、分かってる。お前は何も悪くない」
私は激しく泣きじゃくり、秀弥さんの背中に指を立てた。
「誰にも……っ、め、……わくっ、かけてな……っ、――――りょうにっ、ひどい事したっ、――くせに……っ」
「大丈夫だ。ちゃんと決着をつける」
秀弥さんは私の額にキスをし、頬に流れた涙を唇で吸い取る。
そのまま、私は酸欠になりそうなぐらい泣いたあと、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
秀弥さんは非常階段の踊り場に座り込み、膝の上に私を乗せてトントンと優しく背中を叩く。
彼は私の顔を覗き込んで様子を確認したあと、提案してきた。
「夕貴、もう結婚するし、会社を辞めないか?」
「え……?」
私は瞠目し、彼を見つめる。
「俺がまず大切にしたいのは、夕貴が心身共に健やかでいる事だ。高瀬が訴えられたとして、会社のやつらが掌を返して優しくしてくれると思うか?」
そう言われ、私は俯く。
「課長補佐の目線で言うけど、夕貴は周りのやつらに舐められてる。仕事を押しつけられても『自分でやれ』って言えないし、男に誘われてもハッキリ断れず、なあなあにして、『なんとかその場を切り抜ければ忘れてくれるだろう』って思ってるだろ」
痛いところを突かれ、何も言えない。
「学校と会社が一緒とは言わないけど、人をいじったり、いいように使って楽をしようとするやつって、どこにでも必ずいるんだよ。そんな中、夕貴は今まで充分頑張ってきたし、よく働いた。自分でもその努力を誇りに思ってるだろう。『頑張った分、週末はちょっといいスイーツを食べる』っていつも言ってるしな」
秀弥さんの言葉を聞き、私はコクンと頷く。
「頑張った分仕事に責任を感じてるだろうし、自分がいないと周りが困るって思っているだろう。……でも残酷な事を言えば、社員一人が辞めても会社は潰れない。勿論、俺がいなくなっても何も変わらない。欠員に人が埋まり、また元のように回っていく」
その言葉はよく耳にする。
『過労死する前に仕事を辞めて。その会社はあなたの命を捧げるほど大切なもの? あなたがいなくなっても会社は何も変わらない』
働き過ぎて体調を崩してしまった人がSNSで訴えているのを、しばしば目にする事もある。
意味は少し違うけれど、秀弥さんはそれと同じ事を言っている。
「桧物谷食品は新卒で入社して、ずっと頑張っていこうと思った所かもしれない。でも変な噂が回ってしまった以上、ここで働き続けるのは精神的にキツイと思う。仕事って場所よりも人だ。『せっかく入った会社だから』『大手メーカーだから』ってこだわるより、どんな所であっても人間関係で精神的な負担を抱えずに働ける所のほうがいい」
秀弥さんの言いたい事を理解し、私は小さく頷いた。
「以前から言ってるけど、俺はもう働かなくていいぐらい資産があるから、いつ会社を辞めてもいい。ここに留まっていたのは『やる事がないからとりあえず働くか』っていうのと、夕貴がいたからだ」
「……私?」
思わず目を瞬かせると、秀弥さんは溜め息をついて笑う。
「お前がいたからってのが、理由の八割ぐらいだよ」
彼の想いの強さを知り、私はまた泣きそうになってしまう。
秀弥さんは私を見てニヤリと笑う。
「一緒に辞めるか? 結婚も控えてるし、腹くくってくれよ。小さい世界から出て、俺と一緒に新しい世界で生きよう。今まで色んな事を我慢してきた分、しばらくのんびり暮らせばいい。好きな物を買ってやるし、美味いもんを奢ってやる。『~しなきゃ』の気持ちを手放して、もっと気楽に生きよう。最初は慣れないかもしれないが、新しい生活のルーティンを作ればまた順応していく」
彼の言葉を聞いていると、混乱していた心がかなり落ち着き整理されていった。
「……一緒に辞めたら、会社の人になんて言われるかな」
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