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「……夕貴、会社辞めるの?」
志保にもまだ言っていなかったので、そう反応されるのは当然だ。
「……うん。内緒にしていた訳じゃないけど、急にごめんね」
彼女はショックを受けた表情をし、私の両手を握ってくる。
「それって、先日の騒ぎがあったから?」
「…………うん。なんか疲れちゃって」
曖昧に微笑むと、志保は呆然として私を見ていた。
「えっ……、だって……、彼女たちは西崎さんに叱られたし、もう大丈夫だって」
「ありがとう。……でも……」
私は視線を落として静かに微笑み、壁にもたれ掛かった。
「四年勤めてきたし、西崎さんの言う通り仕事を押しつけられて舐められてるとしても、自分のしてきた仕事には責任や誇りを持ってる。『どうでもいい』と思って手放す訳じゃないよ」
私は壁に貼ってあるポスターを何とはなしに見ながら、続く言葉を探す。
「けど、なんか張り詰めていた糸がプツンと切れちゃった感じで、『もういいかな』って。匿名掲示板で好き勝手に書かれているみたいだし、そういうものに関わっている人たちから場所ごと距離をとって、別の角度から人生を見つめ直すのもいいかな……って思ったんだ」
そう言うと、志保は表情を強張らせて聞き返した。
「匿名掲示板?」
「……うん。……びっくりしちゃうよね。……それは西崎さんや弟が『訴える』って言ってくれているから、私はノータッチで任せようと思ってる」
「訴えるの!?」
志保は声を上げてから周囲を見て、ギュッと両手を握る。
「……そ、そうだよね。何を書いてるか分からないけど、悪口書かれてるなら毅然とした態度を取らないと」
「私はあまり乗り気じゃないけど、西崎さん達は『傷付いて泣き寝入りするのは馬鹿らしい』って言っていて。嫌な人たちの言葉を知らずに済むなら、お願いしようと思っている」
「……そうなんだ……」
志保は溜め息をついたあと、壁を背にしゃがみ込み溜め息をつく。
そのあと彼女は黙り込んでしまい、突然色々知らせすぎてしまったなと反省した私は、ポンと彼女の肩を叩いた。
「また今度、お茶しながらゆっくり話そう。今は仕事もあるし」
「……そうだね」
私たちは再びデスクに戻り、始業を迎える。
けれどその日の志保はミスが多く、一日ボーッとしていたように思えた。
**
出社すると必ずと言っていいほど好奇の視線に晒されるし、誰かが耳打ちして会話するのが視界の端で見えた。
けれど「もう会社辞めるしな」と思うと吹っ切れてきて、あまりなんとも思わなくなってきた。
学校や会社に属していると、そこが自分にとってとても大切な場所に思える。
うまく人間関係を築いていかないとならないと思うし、誰かに嫌われて嫌な噂を流されたら、一生変な烙印を押されたまま生きていくのでは……とも思ってしまう。
でも所詮は小さな世界だ。
今の会社を辞めても別の会社に入れば、秀弥さんや亮の事を知っている人はいなくなる。
思い切って住む場所を変えてみれば、私と亮が姉弟だっていう事すら知らない人がいる。
執拗に私を叩くネットの掲示板だって、見なければノーダメージだ。
そのうち書き込みをしている人たちが訴えられたら、ある程度鎮静化するかもしれない。
他人が私にどんな感情を抱き、何をしようとも彼らの考え方を変える事はできない。
生まれ持っての性格や家庭環境、または今現在、体調が悪かったり恋人に浮気されているとか、うまくいかない事があってムシャクシャしているのかもしれない。
誰かにイライラをぶつける人は、自分の人生がうまくいっていない人だ。
それを胸に刻み込むと、「自分はそうならないように気をつけよう」と思えるし、相手を「可哀想だな」と思う心の余裕も出てくる。
……と言っても、自分を侮辱した相手と分かり合いたいとは思わないので、一生嫌われたままでいいと思うし、この先道が交じらなくていいと思っているけれど。
騒動があった最初は動揺してこの世の終わりみたいに思っていた私は、次第に心の安定を取り戻し、会社を辞める日まで淡々と仕事を続けるようになった。
(せめて完璧に引き継ぎの用意をして、いなくなったあとに『手抜きした』って文句を言われないようにしないと)
そのように過ごして三週間が経ち、あとは有給を使えば出社しなくても良くなる。
亮は会社が終わると秀弥さんの家に帰るようになり、二人は仲良し……とは言えないけれど、私を気遣ってかギスギスせず過ごしてくれている。
そんなある日の夕食後、秀弥さんが真剣な顔をして言ってきた。
「お前の耳に入れておきたい事があるんだけど……」
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