伸(しん)

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 教室を出ると、伸(しん)はとぼとぼと階段を降りていった。 「今度の模試、どうだった?。」 後ろから友人が声をかけてきた。 「うん・・。」 冴えない顔のまま、伸は振り向こうともしなかった。 「オレ、二十点も上がったぜ!。」 そういいながら、友人は嬉しそうに息を弾ませながら階段を駆け下りていった。 「はあ・・。また母さんに叱られるなあ・・。」 溜息混じりに階段を降りると、外はすっかり夜更けだった。繁華街から少し離れた所にある、とある小さな雑居ビル。其処の二階に、伸が通う塾があった。今度の模試では、そんなに勉強していなさそうな友人達も、軒並み点数がアップしていたが、伸だけは前回よりも点数が下がっていた。 「勉強やらなかった訳じゃ無いんだけどなあ。」 そう呟きながら、伸は一人、駅の方に向かって歩いていた。と、その時、 「あ、優(まさる)だ。」 伸は前方を颯爽と歩く友人の姿を見つけた。 「よっ。」 彼は後ろから優に近付きながら、肩を叩いて声をかけた。 「・・・ああ。」 落ち着き払った様子で、優は振り返って返事をした。 「模試、どうだった?。」 「うん。前と変わらないかな。」 「へー。ってことは、また、ほぼ満点か?。」 「うん。」 羨ましい限りの点数を獲りながらも、優は全く感情表現を示さなかった。そんなキャラであることは、伸も知ってはいたが、 「なあ、嬉しく無いのかよ?。そんな点獲れて?。」 と、優に敢えてたずねてみた。 「うん、やることやったし。ま、当然の結果・・かな。」 その言葉を聞いて、伸は優が自信の得点に対して何も感じていないのでは無く、その嬉しさを押し殺すように平静を装っていることに気付いた。そして、 「いいよなー、オマエは。オレだって、やることはやったけど、サッパリだったよ・・。」 羨望から諦めにも似た口調で、伸はしみじみと述べた。同じ努力をしても、この世には報われる者と報われない者がいることを、あらためて気付かされるだけだった。 「じゃ、オレ、電車に乗るから。」 「ああ。じゃーなー。」 優は少し離れた所から来ていたので、別れの挨拶をすると、すぐに改札に向かった。 「さーて、いい訳考えるのも飽きたし、今日も叱られるのを耐えるか・・。」 伸は程なく訪れる憂鬱な未来を想定しながら、再びとぼとぼと歩き出した。暫く歩いていると、右側の細い路地辺りに、何やら人影らしきものが伸の目に入った。 「何だろう?。」 伸は恐る恐る近づいてみた。すると、一人の老婆が蹲っていた。 「酔っ払い・・かな?。でも、こんな年寄りが泥酔するのも変だな・・。」 一瞬躊躇したが、伸はその老婆に声をかけた。 「あの、大丈夫ですか?。」 伸の声を聞いて、老婆はハッとなりながら振り返った。 「だ、誰だね?。」 「いや、通りすがりの者です。」 心配して声を掛けたのに、何か疑り深い眼差しで見られているなと、伸は若干後悔した。ところが、 「おー、わざわざ声をかけてくれたんじゃな。それはスマンのお。ちょっと足を挫いてな。じゃが、もう大丈夫。」 老婆は自身の物いいが雑だったのを詫びると、なんとか立ち上がろうとした。しかし、 「あいたたた・・。」 挫いた右足に力が入らない様子で、老婆は再び道にへたり込んでしまった。見かねた伸は、 「あの、もしよかったら、お家まで送りましょうか?。」 と、老婆に声をかけた。 「そうかい。そいつはスマンねえ。じゃあ、お願いするよ。」 伸の言葉に、老婆は急に柔和な表情になると、伸の背中に負ぶさった。そして、背中の上から道順を示すと、伸はいわれた通りにに、老婆を家まで運んでいった。結構な距離ではあったが、若くて体力もある伸には、特に苦では無かった。少し古びた一軒家の前で、伸は老婆を下ろした。 「じゃ、ボクはこれで。」 伸は帰路が遠回りになったのを気にして、すぐさま立ち去ろうとした。すると、 「あ、ちょっとお待ち。」 老婆は伸の背中に声をかけた。 「何ですか?。」 「ワシを此処まで運んでくれた礼じゃよ。」 老婆はそういうと、伸に手を出すようにいった。そして、右の手の平に小さな丸い石のようなものを手渡した。 「オマエさん。何か望みはあるかな?。」 老婆は伸を見ながら、そうたずねた。 「望み・・ですか?。いえ、特には。」 急な問いかけに、伸は早く帰りたい一心で、そう伝えた。しかし、 「オマエがワシを助けてくれた時、オマエの顔は憂いに満ちておったぞ?。何か悩み事でもあるんじゃろ?。」 まるで真の心を見透かしているかのように、老婆は呟いた。仕方無く、 「はは。実は、今日返された模試の結果が思わしくなくって・・。」 伸は今見舞われている自身の状況について説明した。すると、 「なるほどのう・・。現代っ子特有の悩みじゃな。よーし。では。その右手に持った石を握って、何が欲しいのかを念じてみるがいい。」 老婆はそういいながら、伸に右手を握らせた。伸は不思議な気持ちになりながらも、 「欲しいもの・・かあ。やっぱ、今一番欲しいものは・・、」 考えが定まった伸は、目を閉じながら欲しいものを心の中で念じた。  すると、老婆は伸の右手の上に自身の手をそっと置き、 「願いは聞き届けられた。では。」 そう声をかけながら、伸の握られた手から、そっと手を離した。それに気付いた伸は目を開けたが、 「あれ?。」 目の前に、老婆の姿は無かった。そして、 「・・ん?。」 手の感覚が先ほどとは異なっているのに気付くと、恐る恐る手の平を開いてみた。 「あ!。石が無い!。」 さっき確かに手渡された丸い石が、跡形もなく消え去っていた。辺りを見渡してみたが、やはり石は落ちていなかった。 「おかしいなあ・・。お婆さんの家は確かに目の前にあるのに、彼女も石も消えてるなんて・・。」 説明の付かない現象に、伸は暫し呆然となった。しかし、 「誰に何の説明をしても、土台無理だな。何より、この事を知ってるのは、ボクと消えたお婆さんだけだしな。」 非現実的なことが自身の身に起きたと納得するより、逆に何事も無かったとしておいた方が都合がいいと、伸はそう考えた。 「いっけね。」 伸は再び現実に目を向けると同時に、帰りが遅くなっていることに気付いた。そして、慌てて走りながら帰路に就いた。息を切らせながら、伸は家の玄関まで辿り着いた。すると、 「はあ、はあ・・。また叱られ・・、」 と思った所で、伸は急に別の考えに見舞われた。 「ないな。叱られない。うん。」 何かに気付いたように、伸は呼吸を整えながら玄関の戸を開けた。 「ただいまー。」 伸の声を聞いて、奥から母親が慌てて駆け寄ってきた。 「こんな時間まで、何処いってたのよ!。」 狼狽えた母親は、真の姿を見た途端、しゃがみ込んで伸の両肩をギュッと掴んだ。 「御免なさい。困ってるお婆さんがいたから、家まで送ってあげてたら、遅くなっちゃって・・。」 いい訳がましい上に、現実かどうかも解らない出来事だったが、伸はそのまま正直に答えた。すると、 「よかった・・。」 母親は伸をギュッと抱きしめて、小声でそういった。 「やっぱり、叱られない・・。」 伸はさっき閃いた考えが現実に起きているのに、あらためて気付いた。そして、 「今日、模試の結果が帰ってきたんだ。でも、点数が・・、」 伸はそういいながら、抱かれるがままに、さらに正直に答えようとした。しかし、 「いいの。そんなことは・・。」 やはり母親は、伸を責めたりはしなかった。ただただ、安堵の抱擁が力強いことに、伸は驚くより他なかった。そして、 「さ、お腹空いたでしょ?。ご飯用意してあるから。」 母親は優しい表情で、伸にそういった。 「うん。」 伸は勉強道具を二階の部屋に持っていくと、洗面所で手を洗って、母親が用意してくれた晩ごはんを食べた。そして、ハンバーグを端で割りながら、ご飯と一緒に口まで運んで、 「美味しい!。」 と、嬉しそうに母親にいった。 「そう。よかった。」 母親もまた、伸が美味しそうに晩ごはんを食べる様子を、満足そうに見つめていた。しかし、 「何で、叱らないって解ったんだろう・・。」 伸は、先ほどの玄関での出来事を思い出していた。いつもなら間違い無く、点数の振るわないテストのことをガミガミといわれるはずだった。それが、そうはならなかった。別に、母親に叱られないようにと、石に願った訳でも無かった。食事を終えて、伸は食器を台所まで持っていくと、そのまま二階の自室にいった。 「うーん、やっぱり解らないな。」 そう呟きながら、塾の問題集を開いて、いつものように溜息混じりで解けなさそうな問題と睨めっこしようとした。ところが、 「あれ?、これ、解るぞ!。」 伸は何気に解答を書いてみた。すると、次の問題も、その次の問題も、スラスラと解答が書けた。そして、いつもなら小一時間はかかる宿題も、ものの数分で終えてしまった。 「うわっ、何だ、これ!。」 こんなこと、初めてだった。試しに他の問題集も、ちょっとやってみた。 「解ける。やっぱり・・。」 明らかに自身の身に何らかの変化が起きていることに、伸は気付いた。そして、 「まさか・・。」 伸はその原因に心当たりがあった。 「あのお婆さん、いや、あのお婆さんがいってた、石の件は、本当だったんだ・・。」 食事を終えて、いつもなら微睡む頃だというのに、伸の目は冴え渡った。興奮して、なかなか寝付けなかった。そして、ベットに仰向けになりながら、 「ヤッホー!。有り難う、お婆さん。」 そう呟くと、明日が来るのが待ち遠しくて、何時までも明日起きるであろう出来事を予測していた。そして、ようやく眠りに落ちかけた時、伸は夢を見た。其処には、今日出会った老婆が佇んでいた。そして、 「本当に、それで良かったのかい?。」 と、誰かに話しかけていた。見ると、その相手というのは、優だった。彼は寂しそうに俯きながら、静かに首を横に振った。その様子を、伸は遠巻きに見ていたのだった。二人の間に、一体何が起こっているのだろう。伸はそう思いながら、眠りに落ちた。  翌朝、伸は魘されながら、のた打った。そして、 「ハッ!。」 と、飛び起きた。微かだったが、奇妙な光景が脳裏に残っていた。 「夢・・かあ。」 寝覚めは悪かったが、それでも、寝る前のワクワク感を思い出すと、彼は洗面所で歯磨きを済ませて、顔を洗った。そして、 「んー、見た目は何ら変わらないなあ・・。」 と、鏡に映る自分の顔をしげしげと眺めた。となると、外見では無く、伸の望み通り、内面に確実なる変化が起きているのであろうと、彼はそう確信した。朝食を取るのもそこそこに、 「いってきます。」 そういうと、伸はカバンを肩に掛けて、学校に向かった。意気揚々と歩みを進めつつ、いつもの路地を進んでいると、 「あ。」 と、声を漏らしながら、交差点の手前で急に立ち止まった。その横を、 「よう!。」 と、伸の肩を叩きながら、いつものようにクラスメイトが通り過ぎようとしたその時、 「キーッ!。ドン!。」 と、交差点の右からやって来た車に、クラスメイトは轢かれてしまった。 「ドシャッ!。」 鈍い音と共に、彼は左側に弾き飛ばされて倒れ込んだ。そして、車のバンパーにぶつかった右側を押さえながら、 「痛い、痛い・・。」 と呻きだした。その様子を、登校途中の生徒達は硬直しながら見ていたが、やがて、 「おい、大丈夫か?。」 と、数人が倒れてる彼の元へ駆け寄った。 「痛い。痛いよっ。」 悲痛な呻き声を出しながら、彼はその場に蹲ったままだった。しかし、伸だけはその場に立ったまま、静かに車の様子を窺っていた。 「やっぱり降りて来ない・・。」 と、次の瞬間、 「ブーン。」 車は急にバックしたかと思うと、そのままその場を立ち去ってしまった。それに気付いた生徒の一人が、 「あ、逃げちゃう!。」 と大声を出したが、時既に遅し。車はその場を立ち去ってしまった。 「おい、どうしたんだ?。」 みんながクラスメイトを心配する中、伸だけがその場に立ち尽くしているのを不思議に思った生徒の一人が伸にたずねた。すると、 「救急車呼んで、次に警察に連絡して。オレ、スマホ持ってないから。」 と、伸は淡々とその生徒に告げた。 「あ、うん・・。」 いわれるがままに、生徒は救急車を手配し、その後、警察に連絡した。程なくして救急車が、次いで、警察車両が到着すると、ひき逃げ事件として捜査が始まった。クラスメイトはすぐに病院に運ばれ、辺りには警察が非常線を張った。そして、近くで事故を目撃していた生徒達に事情聴取が始まったが、事故のことを述べる生徒はいても、逃げた車のことを話せる生徒は誰もいなかった。すると、 「あの、お巡りさん・・、」 物々しい雰囲気に押されて黙っていた伸が、小声で一人の警官に話しかけた。 「逃げた車ですけど・・、」 と、伸は車の特徴では無く、車種とナンバー、そして、運転していた人物の詳細を克明に説明した。あまりにも具体的な記憶に警官も大層驚いた様子だったが、すぐさま無線で伸の話を本部に連絡した。そして緊急配備が敷かれ、ヘリコプターが出動するなど、さらに物々しい雰囲気になっていった。本部と連絡を取り終えた警官が、 「どうも有り難・・、」 と、伸の姿を探したが、彼はもうその場にはいなかった。 「間違い無い・・。」 事故現場から、かなり離れた所に伸の姿はあった。 「ボクは確かに車が来るのが解った。そして、轢いた車がその場を立ち去ることも解った。そして・・、」 伸は犯人の姿だけでは無く、名前と職業も解っていた。聞いたことも、会ったことも無い、決して解るはずの無い、その彼の名と職業が。 「あり得ない。絶対にあり得ない。でも・・、」 彼は自身でも理解出来ない矛盾に苛まれつつ、それでも、そうなる切っ掛けについては、しっかりと確信を得ていた。現象こそ奇妙極まりなかったが、そうなるように望んだのは、自分自身だった。何一つ悪いことはしていない。しかし、底知れぬ嫌悪感と罪悪感が彼を襲った。そして、何処に彼の姿が映っているものも無かったが、伸は自身の顔が蒼白であろうことは、容易に想像出来た。そして、 「一時の迷い。じきに落ち着く。いこう。いつも通りに、学校へ。」 知らないはずの、心の落ち着かせ方を諳んじると、伸は何事も無かったかのように、そのまま登校した。学校では朝の朝礼で事故のことが報告され、クラスメイトは命に別状は無かったが、そのまま入院して、今日は学校に来ない旨が告げられた。そして授業が始まると、伸が予想していた通り、どの科目の、出される全ての問題の解答が、瞬時に伸の頭に下りてきた。昨晩までの伸なら、そんな自身に小躍りさえしただろう。しかし、もう伸にとっては、当然の帰結であると同時に、その状況を十分には納得していないもう一人の自分と、どう折り合いを付けるかにのみ集中していた。 「焦っているなあ、オレ。でも、そんな焦りを、すぐさま打ち消す新たな知識が湧いてくる・・。」 自分がもはや、かつて存在していた自分では無くなっていることを、彼は理解し始めていた。  昼休みになって、伸は昼食も取らずに職員室に向かった。そして、窓の隙間から室内の様子を窺った。 「捕まりましたね。」 「ええ。かなり克明な情報提供があったそうですよ。」 「へー。」 教員たちが、職員室にあるテレビの前で立ち話をしていた。 「なお、逮捕された犯人は・・、」 事故を伝えるアナウンサーの声に、伸は職員室の外から耳を傾けた。そして、当然のように、伸の脳裏に浮かんだ名と職業がアナウンサーの口から発せられた。 「へー、医師ですって。」 「真っ先にでも救護出来たものを、一体、何故?。」 教師は口々に思いの丈を述べていた。その声を他所に、伸はその場を離れながら、 「立場を失いたくないから。決まってんだろ・・。」 と、一人呟きながら、校庭を横切って校舎の裏に向かった。伸は何か良くないことがあると、時折、微かに日の当たるその場所に来ては身を潜めることがあった。膝の下辺りまで雑草が伸び、時折虫が草から草へと飛び移るのを眺めては、心を休めていた。 「草の名前は・・、」 「虫の名前は・・、」 思い浮かぶ全ての疑問には、必ず答えが伴って脳裏に浮かぶことを、伸は既に知っていた。だからこそ、彼は疑問を抱くことをやめてしまった。そして、極力何も考えないようにしながら、ただただ光景だけをボーッと見つめていた。そして、いつものように、塀にもたれながら天を仰いで、 「このまま好奇心に導かれながら全てに疑問を投げかけると、すぐさま全ての答えを得られてしまう・・。地球、いや、宇宙の始まりだって・・。」 ともすれば、人類が到達し得なかった真理にさえ触れることが出来るだろう。伸はそう思っていた。しかし、そのことを確かめようとはしなかった。そしてそっと目を閉じて、太陽の光を瞼に感じた。 「暖かいなあ。」 そう呟きながら、一筋の涙を零した。そして、ふと目を開けると、傍らに見覚えのある人物が立っていた。あの老婆だった。地上のどの動物よりも鋭敏な感覚を備えているであろう伸でさえ、その気配は掴めたなった。 「ワシが居ると、気付かなかったかな?。」 「いえ、居るだろうとは思ったけど、感じなかった。」 「ハハハ。やはりそうか。」 「ええ。アナタは人界の者ではありませんから。」 「じゃあ、ワシは何者かな?。」 「さあ・・。」 伸は、老婆の質問に、答えをはぐらかせた。そして、伸は冷ややかに微笑みながら、 「アナタは、ボクが望み通りになることを喜ぶ。そういう生き物、いや、生死など、どうでもいい存在・・。」 そういいつつ、老婆に優しい眼差しを向けた。 「ワシは例として、オマエの望むものを授けた。オマエの望み、そう、何処までも能力が伸びること。今まで出会った数々の者と比して、比べものにならぬぐらいに欲深い願じゃと、流石のワシも驚いたわい。しかし、同時にそれは面白いことでもある。ならば、オマエの望むようにしてやろうと、ワシはそう考えた。で、どうじゃな?、望み通りの人生は?。」 老婆は目を輝かせながら、伸にたずねた。 「初めは喜び、そしてすぐに恐怖し、やがて慣れて、今は退屈です。申し訳無いけど、アナタの期待に添うような事態は起きなかった。」 伸は淡々と述べながら、やはり優しい眼差しで天を仰いだ。 「ほう。ワシがどのような期待をしておるというのじゃ?。」 老婆は目をギラつかせながら伸にたずねた。 「欲望の穂脳に身を焦がす。そして全てを失い、絶望に打拉がれる姿を眺めつつ、密やかに笑う。多分、そんなところでしょう。そして、それこそが、アナタの延命の糧。」 伸は、老婆の望む通りの答えを披露した。 「ほう。人間にしては小賢しいな。」 「あんな望みを叶えさせるからですよ。」 「まるでワシが魔の者であるかのようないい様。当たらずとはいえ、遠からじ。どうやら、オマエはワシの糧にはならぬようじゃな。では、オマエに授けし、その力、返して貰うぞ。」 彼女はそういうと、顔の前に指を二本突き立てながら、何かを念じ始めた。しかし、その様子を、伸は何時までも優しい眼差しで見つめた。次第に老婆の額に汗が滲み始め、彼女の意とするところが叶わぬものと、そう悟った。そして、 「何故そのような眼差しをワシに向ける!。よさぬか!。」 「いえ。ボクが此処で潰えたら、アナタは次の獲物を探して、同じことを繰り返すだけ。それだけはさせません。アナタはボクを糧として得なければ、次の所へは渡れない。それは誤算でしたね。」 伸の冴えはまだ残っていた。 「わ、解った。そなたのいう通り、もう人間に手出しはせぬ。だから、許してくれ・・。」 老婆は苦しみながら、伸に懇願した。 「ボクは何もしてません。ただ、アナタを許している。それだけです。」 その一言に、老婆は力尽き、姿を消した。そして、我に返った伸は、 「二次方程式の解き方は、忘れちゃったな。」 と、微笑んだ。
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