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序話 常夜の街
新宿駅は迷宮。新宿は眠らない街。
そんな言葉をよく聞くけれど、実はその地下にこそ、本物の迷宮が、眠らない街が存在する。
それは数百年以上前にできた、巨大な地下空間に造られた街だ。新宿駅よりも複雑怪奇な魔窟であり、陽の光が届かない永遠の夜の街。
その名を『常夜街』。
日中でも黄昏時のように薄暗く、街のあちこちに吊るされた無数のランタンや提灯が街を照らしている。
常に夜だから『常夜街』。あるいは――あの世を意味する『常世』の古い表記『常夜』から名付けられたとも言われている。
その名の通り、この世からかけ離れた常夜街に住むのは普通の人間ではない。八割が人間でないもの。残り二割の人間も、それなりに普通ではないものである。
正真正銘の魑魅魍魎が支配する、地上の法律も常識も通用しない街。人間が迷い込めば、命の保証はないと言われている。
それゆえ、常夜街に入るには申請が必要で、案内人と一緒に行動するのが原則だ。また、地上からの入口には警備員が常駐し、特別な通行証が無い者は通れないようになっていた。
新宿駅のアルプス広場の端にある小さな改札に、常夜街への通路がある。改札には、今夜配属されたばかりの警備員が気合を入れて立っていた。
そんな改札の前に、大きな荷物を持って構内を駆けてきた一人の少年が立ち止まる。
少年はポケットを探りながら「あれぇ?」と首を傾げた。改札前に佇む少年に、新人警備員が話しかける。
「君、観光客かい? 今日の受付時間はもう過ぎているよ。常夜街に行きたいのなら、明日の朝に手続きをしてから案内係と一緒に……」
研修で習った文言を並べつつ、警備員は少年をさっと観察する。
高校生くらいだろうか。毛先の跳ねた癖のある髪に、猫のような淡い色の大きな目が印象的だ。ぶかぶかの白いウインドブレーカーに黒い細身のジーンズ、紫色のごついスニーカー。
上着の背に、白黒の勾玉を組み合わせた周りに棒線が書かれた変な図――陰陽太極図と八卦の図である――がでかでかと描かれていることを除けば、まあ、外見は普通の少年だ。
持ち物は黒いボディバッグに……大きく膨らんだ二つのエコバッグ。
今から観光に行こうとしているのに、すでに荷物を大量に持っていることを不審に思い、警備員は目を眇める。
「ちょっと、君……」
「あった!」
声を上げた少年は、ボディバッグからICカードを取り出した。藍色とも黒色ともつかぬ深い色のカードに照明が反射する様は、まるで夜の闇に浮かぶ灯りのようだ。
「そうだそうだ。さっきレンタルのカードと間違って入れ替えたんだった」
少年は一人で納得しながら、ほっと胸を撫で下ろす仕草を見せた。
「うーん、ストアのアプリ入れてもなぁ……どうせ地下じゃスマホ使えないし……」
ぶつぶつと独り言ちる少年は、がさりと鳴るエコバックを抱え直す。
動いた拍子に垣間見えた中身は、一方に大量のレンタルDVDと大量の駄菓子、もう一方にトイレットペーパーとフロア掃除用具の取り換えシート数種類だ。
生活感ある中身に呆気にとられる警備員の前で、少年はICカードを慣れた手つきで改札にかざす。ピロンと正常な音を立てた改札は、少年が通ることをすんなりと許した。
「あっ、お勤めご苦労様です!」
改札を通り抜けかけた少年は思い出したように振り返り、エコバッグに入った駄菓子の一つ――十円で買える明太子味の棒状スナックを、警備員に向けて投げる。
反射で受け取った警備員に愛想よく手を振りながら、少年は軽い足取りで地下への階段を降りていく。
思わず手を振り返して少年を見送った警備員だったが、はっと我に返り、隣にいた先輩警備員の方を向いた。
「だ、大丈夫なんですか? あんな子供が一人で常夜街に!」
「ああ、心配ないよ」
年嵩の、ここの警備を長年担当している先輩は当然のように答えた。その顔には笑いを堪える色があり、どうやら新人後輩の反応を楽しんでいたようだ。
「あの子のこと、知ってたんですか……」
「そりゃあな。何しろ、あの子は――」
先輩の指はタイル張りの床を――そのはるか下にある街を示した。
「常夜街の住人だからな」
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