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シエラは小さなため息をつく。しかし、人の感性というのはそれぞれだ。きっとサラの好みに合わなかったというだけのこと。その程度で落ち込んでいる暇はない。
シエラは毎日塔の最上階に登り、太陽が登っている時間はずっと刺繍を続けていた。ときどき休憩のために窓の外を見ることも楽しみの一つだ。
高い塔の最上階からだと森を見渡せた。静かな森を見ていると、その一部になったような気分になって落ち着く。ここには舞踏会もおいしいスイーツもない。
五日に一度公爵家から必要な物が送られてくる以外、何もない。それでも、公爵家の令嬢として社交に出ていたころよりも、王太子の婚約者として立っていたころよりも自由に感じる。
そうして刺繍が完成したのは、シエラが最上階に登ってひと月半経ったころだった。
シエラは予定通り刺繍をベッドカバーにした。白地の大きな生地に紺一色で描いた模様は美しかった。欠けていた部分も解読し綺麗につなげられたと思う。
その日の気分は最高だった。心なしか暖かい。いつもであればもっと冷えて、夜から朝にかけて寒さで数度目覚めるのにその日は一度も目が覚めなかった。
柔らかな朝日で目を覚ますのはいつぶりだろうか。春のようにぬくぬくと暖かい。
シエラはゆっくりと瞼を上げた。
「おはよう。愛らしいお嬢さん」
「え……?」
目の前には黒髪の美しい男。妖艶な笑みを浮かべる様は絵画のようだ。アメジストの瞳は宝石のようで、シエラは目を奪われた。
起き抜けに飛び切り美しい男が現れるとは正気の沙汰ではない。だって、シエラが寝起きしているのはさびれた北の塔。いや、公爵邸だったとしても大問題だ。まだ19歳のうら若き乙女の隣にこんなにも美しい男が同衾しているなどと。
「わかったわ! これは夢ね!」
今日は暖かかったから、おかしな夢でも見ているのだろう。
「なんだ? まだ眠いのか。なら、目が覚めるまで我が添い寝してやろうぞ」
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