確かに愛を謳っていた。

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 ***  入れ替わりの魔法を解除する方法は、見つかった。  しかしこの魔法を成功させるにはある条件があるという。それは“入れ替わった双方が元に戻ることを了承すること”だ。  しょんぼりしてふて寝したとんかつ(沙耶)は当然、元の自分の体に戻ることを望んでいるだろう。しかし、解除の魔法が失敗したということは、とんかつの方が解除を拒んでいるということである。 「ねえ、とんかつ」  私はソファーでひっくり返っている沙耶(とんかつ)に向かって呼びかけた。 「あんた、服着せられるのすごく嫌なんでしょ。この状態じゃ、散歩にも行けないのわかってるでしょ。それなのに、なんでもとに戻りたくないの?あんただって、犬の自分の方が好きでしょう?」  体は沙耶でも、中身は犬である。人間の言葉がどれくらい通じるかは怪しい。  それでも私は、少しでも通じると信じて彼に呼びかけた。 「あのね。元の体に戻れないと、沙耶は学校にも行けないのよ。魔法の訓練も、友達と遊ぶことも、ほんとなにもできないの。それで凄く困ってるのよ。……お願いだから、その体を沙耶に返してあげてくれない?」 「……」  私が言っている言葉は、どこまで彼に通じているのだろうか。  確かなことは、私のその呼びかけに、とんかつが半身を起こしたということだった。 「とんかつ?」  彼は黙って立ち上がると、四つん這いの状態でそっと私の足に頭をすりつけてきた。とんかつがこうする時はすごく甘えたい時と、何か主張したい時だと知っている。  なあに、と彼の前に座ると、とんかつは、沙耶の両腕を私の背中に回してきたのだった。そして。 「まま、すき」 「!」 「まま、すき。とんかつ、まま、すき。……ずっと、すき、言えなかった。でも、今は、言える。まま、すき。だいすき」  私は目を見開く。  虐待され、ボロボロになって保護された元保護犬のとんかつ。彼は二歳で我が家にやってきて、その時は完全に心を閉ざしていた。ひっくり返って眠るようになるのも、家族の手からご飯を食べるようになるのも、長い時間が過ぎてからのことで。 「いたいことしない、ごはんくれる、さんぽいっしょ、行ってくれる。とんかつ、まま、すき。さや、すき。ぱぱ、すき。みんな、ありがとう」  彼は私の頬にすりすりしながら、弾んだ声で言った。  ああまさか。  まさか、魔法が暴発したのは、とんかつがわざとちょっかいを出したから?沙耶と入れ替わることを狙ったのもわざとだったというのか?  人間の、沙耶の体を借りれば、言葉を伝えることができるから? 「とんかつ、しあわせ」  拙い言葉で、とんかつは私に告げる。 「今まで、ありがとう」  え、と思うのと同時に、とんかつの体から力が抜ける。慌てて沙耶の体を抱き寄せると、すう、すうという寝息が聞こえてきた。寝ている。まるで、何かが抜け落ちたかのように。  もしかして。  そう思って私が犬のとんかつの方を見ると、彼は私がこちらを見ると分かっていたのか、視線があうと同時に嬉しそうな笑顔を浮かべた。 「わん!」  一声だけ鳴いたその声に、さっきまでの悲痛な声はなかった。  それから、ほんの三日後のことだ。とんかつが、眠るように息を引き取ったのは。  元々それなりの年だったし、あちこち病気もしていた。ひょっとしたら、己の死期を悟っていたのかもしれない。もしくは、最後に何かを伝えるその時まで生きていようと、体に鞭打って頑張っていたのだろうか。  もとに戻った沙耶が一番泣いていたし、多分私と夫も暫くは立ち直れないだろう。  でも、それでも。彼の最後の言葉を、私は確かに聞いている。 ――うん。……私達も、幸せだったよ。  確かに彼は、愛を謳っていた。  その小さな体で、精一杯に。
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