30人が本棚に入れています
本棚に追加
よかけん 来なっせ
うおなら 綾津
すれ違いざま、微かに聞こえた。小さな声で口ずさむのは綾津小唄の様だが。
かえりにゃ覚える
いそのうた
白い和服を着た女性が、しゃなりしゃなりと橋を進んで行く。
顔は見えなかったが、美女の予感がする後ろ姿だ。
たべなっせ ひふみとこえて
いつつ むっつで 満腹さ
ここは日本。和服を着ていてもおかしい事はない。だが、無地の白い和服とは……
それに、あの人はどこから現れた?
足音も、何の気配も感じなかった。
いや、まさか。
ばってんなかなか来らっさん
ぼんやりとか細い背中を眺めていた梨本だが。
歌い終わると、彼女は──
────つばさ。
「!?」
立ち止まり、確かに梨本の名前を呼んだ。
全身の皮膚が何かを感じ取り、凍り付く。
違う。先程から感じていた。
認めたくない事実を、心が認めたのだ。
自分は今、未曾有の危機にあるのだと。
そして次の瞬間。
女性は、空気にでも隠れた様にふっと消えてしまったのだ。
「うわあっ!」
その時、後ろで声がした。
はっとして振り返ると小学生くらいの男の子が、釣り竿を放り出してひっくり返っている。
「あ、あああ」
しっかりしろ、と助け起こす梨本。
だが、男の子が指差す先には、もう女性の姿は無い。
呆然とする二人の後ろから橋に向かって、潮風が駆け抜けて行く。
ほら、誰もいないよ、とでも言いたそうに。
最初のコメントを投稿しよう!