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彼女は「そうだわ」と、思い出したように言った。
「蟬って、木に止っているのが見えるものですか? 声はよく聴こえますでしょう。家からここまでの道のりでも、よく鳴いているので、どんな様なのか知りたいと思っていたんです」
意識すると、だんだんと蟬の大合唱が聴こえてきた。俺はハッとした。俺はこの世界に迷い込んでからというもの、手話を使いこなそうとに必死になっていた。そのあまり、蟬の鳴声すら耳に入らなくなっていたのだ。
「それで、どうなのかしら。私、目が見えないから、あなたが頷いているかどうかも分らないんですよ」
俺は慌てて「少し考えさせてください」と言った。それから、彼女がはっきりと景色を想像できるよう、なるべく具体的に説明した。
「……蟬って、木の肌と色が似てるんですよね。だから、パッと見では分りません。夏の日差は強いので、木の葉の影が濃く落ちて、余計に紛れてしまいます。でも、近付いてじっと探せば、体を震せて鳴いてる姿がよく分りますよ」
「そう……」
彼女は満ち足りた表情で言った。
「他の人の見ている景色を覗くのって、こんなに面白いものなんですね」
彼女は入道雲のほうを向いて、うっとりしたように言った。
「それにしても、あなたの歌声はとても良かったわ。また聴かせて下さる?」
今度は別の理由で目が潤んだ。俺の心は、また鮮やかになった。
「もちろんです! さっきは激しすぎましたから、もうちょっと優しい歌にしましょうか」
俺は立ち上がると、胸いっぱいに夏の空気を吸い込んだ。
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