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診察室で、医師はむつかしそうな顔をしている。彼女が心配そうに俺のほうを見た。
俺を迎えに来てからというもの、彼女は一言も口をきいてくれなかった。初めのうちはさっきの警官のように、身振り手振りをたくさん俺に見せてきた。何かを聞き出そうとしているようにも思えたが、意味がさっぱり分らない。俺も彼女も、手話は知らないはずである。
「ごめん。俺にはよく分らないから、口で話してくれないか?」
俺はまた、てきとうな手振りを混じえてそう言ったのだった。彼女はショックを受けたように固まって、それ以来、身振り手振りさえしてくれなくなってしまった。
俺が警察のお世話になったことに怒っているのだろうか。病院に足を踏み入れて、そうではないと気付いた。医師も、看護師も、言葉らしい言葉を発しない。皆、手話でやりとりしていたのである。
何かが、明らかにおかしかった。俺は、自分の頰を思いっきりつねってみた。確かにひりひりと痛む。
そんなはずはないと思っていたが、もう信じるしかないようだ。俺はいつの間にか、すこしふしぎな世界に迷い込んでしまったのだ。一見、元いた世界と変りない。だが、少くともこの街の人々は、俺の声を言葉として認識できないらしかった。
医師は深い溜息をつくと、彼女に手話で話しはじめた。俺の容態を説明しているようだ。口も使うには使うが、「あう……」とか「やい」とか、舌っ足らずな声が時々挟まるだけである。まるで赤ん坊に戻ってしまったみたいだ。
医師はこちらに向き直り、俺の腕を指差した。手を見せろ、ということらしい。
俺は素直に従った。医師が眼鏡を掛け直し、丹念に診察する。手のひらを撫でたり、腕の筋をなぞってみたり。もちろん、俺の体には悪いところなんて一つもない。
『耳が聴こえる人を呼んできて下さいませんか。手話が分らないんです。』
俺は、なんとか自分の状況を理解してほしくて、自分の手帳に書いて見せた。だが、二人とも首を傾げるばかりである。
声が聴こえないならまだしも、文字も読めないとはどういうことだろう。机の上にはパソコンも置いてあるのに。
俺は画面を指差して、キーボードを叩く仕草を真似てみた。医師が頷いて、席を譲ってくれる。
声も文字も通じないのなら、絵や写真で説明するしかない。だが、いざブラウザを開こうとして、俺は途方に暮れてしまった。
画面に、俺の見知った文字は一つもなかった。曲線が絡み合った、意味不明の画像が表示されている。キーボードに印字されていたのは、数字でもアルファベットでもなく、手話をかたどった手の絵文字だった。
なんてこった。ここは、文字も話言葉も使われていない、手話だけの世界だったのだ。
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