*歌のない世界*

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 レストランに音楽はなかった。話声も聴こえなかった。お昼のテラス席で人々は皆、楽しそうに手話でやりとりしている。 〈ちょっと、疑問に思ってることがあるんだけど〉  フォークを置いて、彼女に話しかけた。すると、何人かが俺をこっそりと見た。俺の不慣れな手話がたどたどしく見えるのだろう。まるで、幼い子の舌っ足らずな言葉のように。  俺は、手の動きを小さくして訊ねた。 〈どうして人間は、手で話すようになったんだろう〉  彼女は右手でフォークを持ったまま、左手だけで言った。 〈私、今まで考えたこともなかったよ。当り前すぎて〉 〈よく考えてみろよ。犬も鳥も、声で話すじゃないか。蛙や鈴虫だってそうだ。人間だけが手で話すだなんて、やっぱり俺は納得がいかない〉  俺は、思っていたことを素直に伝えた。俺にはずっと、この世界の存在そのものが不思議でならなかったのだ。  彼女はちょっと首をかしげて、思いもよらないことを言った。 〈だって、口って物を食べるためにあるんでしょ。お食事中に声で話したらお行儀悪いよ〉  俺は目を丸くして、それから苦い顔をした。こっちの人たちはそんなふうに思っているのか。  彼女は空を見て、思い出したように言った。 〈人間に近い生き物――チンパンジーとかゴリラを思い出してよ。鳴声も使うけど、表情とか体の動きも目いっぱい使って、自分の気持を伝えるよね。あと、前にテレビで観たことあるよ。人間の頭の中は、目から取り込む情報がほとんどを占めるんだって。だから、ヒトが視覚を使ったやりとりをするように進化したのは、当然の成り行きなんじゃないかな〉  俺は、ぐうの音も出なかった。
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