*歌のない世界*

6/10

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
〈今夜は君に、聴いてほしいものがあるんだ〉  ある日、俺は彼女に切り出した。 〈何? 急に改まって〉  にこにこする彼女をリビングのソファーに坐らせた。少し離れて立ち、深呼吸をする。  俺はすっかり手話を会得して、かなり流暢に話せるようになった。人前でやっても、もう誰にも笑われないほどだ。休んでいた職場にも復帰している。  だが、この世界に本当の意味で馴染めたわけではない。気付くと鼻歌を歌っていたし、机の端をピアノのように叩いていた。心にぽっかりと開いていた穴を、埋めようとするかのようだ。俺はやっぱり、音楽のない暮しには耐えられなかったのだ。  彼女には、俺が別の世界から来たということを明かしていない。俺は少し考えてから、こう言った。 〈今からちょっと、珍しいことをしようと思う。たぶん、君は初めて目にするだろうから、きっと戸惑うと思うんだ。《こいつは何をしてるんだろう》って、不思議に感じるかもしれない。でも、どうしても聴いてほしかったんだ〉 〈いいよ〉  彼女が微笑む。 〈早く見せて〉  本当はギターの一本でもあると良かったのだが、あいにく俺が持ち合せていたのは自分の声だけだった。わくわくした彼女の表情をちらりと見て、俺は口を開いた。  彼女が目を丸くする。  歌い出しの音程がちょっと外れた。ひと月近く歌っていなかったせいで、感覚を忘れていたのだろう。だが、すぐに正しく戻せた。失いかけていた自分を、取り戻してゆくみたいだった。  これは、彼女との出会いの曲だった。俺が歌手を目指して路上ライブを始めた頃、初めて足を止めてくれたのが彼女だった。それがきっかけで、俺たちは付き合うことになった。  彼女はいつでも、俺を支えてくれた。落選続きの時はそばにいて慰めてくれたし、俺の歌がSNSの動画に使われた時は、一緒になって喜んでくれた。  厳密に言うと、ここにいる彼女はあの人とは別人だ。彼女は俺の歌を聴いたことはないし、出会いのきっかけも違ったはずだ。だが、俺は音楽の力を確信していた。音楽は国境を越える。言葉が違っても、音楽は心に届くのである。心からの本物の気持で歌えば、彼女にもかならず伝わるはずだと、俺は真っ直ぐ信じていたのだった。  歌っているあいだは、仕事の嫌なことも、これまでの苦労も忘れられた。つらい時は、大好きなバンドの楽曲を聴いて自分を奮い立たせた。歌を仕事にできたらどんなに素敵だろうと、何度も思った。その夢を叶えるために、今まで頑張ってこられたのだ。  俺は自然に笑みをこぼしていた。俺は幸せだった。だが、サビに入るまさにその時、彼女がぴしゃりと言い放った。 〈もうやめて〉  俺は一瞬、彼女の手話が分らなかった。俺の心にひびが入って、ばらばらと崩れてゆく。彼女は眉尻を下げて、申し訳なさそうに言った。 〈あなたの声は、確かに綺麗に響くと思うよ。その口ぶりに、何かしらの気持を込めてるっていうことも分る。でも、どんな意味かは分かんないの。興味のない抽象画を見せられてるみたい。近所の人に聞かれたらおかしいと思われるから、もう変な声を出すのはやめて〉
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加