二周目:夏。応援に行ってもいいですか?

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 その日、私は園芸部に鬼瓦先生に謝って早めに家に帰ることにした。買い物に行かないといけないから。  本当だったら、近藤くんと少しだけ話がしたかったけれど、稽古中の人に声をかけるのも忍びない。私は剣道場のほうを一瞥してから、さっさと帰ろうとしたとき。 「佐久馬」  声をかけられて、私はビクン、と肩を跳ねさせた。振り返ったら、胴着姿の近藤くんがいた。多分走り込み中だったんだろう。少し息が上がっているようだった。 「こん、にちは」 「……あー、もう怒鳴ったりしないって。さすがに毎日急いで帰ってるのを見たら、なんかあるんだろうってことくらいはわかるし」 「ごめん……」 「そんなに怖がるなって」  私がビクビクしている中、近藤くんはガリガリとうなじを引っ掻いたあと、もう一度私のほうに視線を戻した。 「あのさ、いっつも忙しそうにしてるけど、日曜はやっぱり忙しいか?」 「えっと……土日だったら、親も休みだから大丈夫だと思う」 「あれ? 前に買い物って言ってたけど」 「うち、共働きだから。だから普段の家事は全部私がやってるし、週末は買い出しに行ってるから……さすがにそれだけじゃ全部賄えないから、平日でも買い物に行くけど」  そう伝えたら、少しだけびっくりしたように目を見開いたあと、「あー……すまん」と唸り声を上げられてしまった。 「どうして?」 「あー……うん。そんなに急いで帰らないといけないのかって、思ってなかったから。あー……すまん。でもそれだったらなおのこと、休みを潰す訳には」 「私、剣道のルールとか、全然わからないけど、見に行っても大丈夫なの?」  そう言ったら、またも近藤くんは目を見開いたあと、こちらにもう一度声をかけてきた。 「マジで?」 「えっ?」 「マジで見に来てくれんの? あー……よかった。別に審判の言葉聞いとけばだいたいわかるから、ルールはそんなに問題ないと思う」 「そうなの? えっと。なにか持っていったほうがいいの?」  私の言葉に、近藤くんは目をパチクリとさせていた。私は言葉を続ける。 「えっと差し入れ。他の先輩さんたちの邪魔にならなかったら、だけど……」 「アイス。アイスだったら入る。安いのでいい。アイス」  アイスだったら、ドラッグストアのポイントとクーポンを使えば、人数分買ってもそこまで高くないかな。普段から買い出しに行っているドラッグストアのポイントを頭に浮かべながら、私は頷いた。 「わかった。邪魔にならないよう、見に行く」 「おう。じゃ」  そう言って近藤くんは、ぶっきらぼうに背を見せて去って行ってしまった。でも。気のせいかすれ違いざまに見上げた耳が赤かったような気がする。  私は家に帰る前にスーパーとドラッグストアをはしごして、買い物していった。ここしばらくのご飯の材料を買い足していたところで、私は鶏肉が安いことに気が付いた。  ……多分剣道の試合では、傷むものを出さないようにってことで、手作り品は駄目なんだろうけど。平日の昼ご飯だったらどうなんだろう。私は鶏肉の値段をちらっと見てから、一枚余分に買っていった。  今晩のおかずとして、漬け汁に漬けたひと口大の鶏肉を、米粉の衣を付けてジュワッと揚げる。二回揚げてから、多めにつくったぶんを冷ましておく。  体育会系男子に唐揚げって、安直過ぎるのかな。そう思ったけれど、私は近藤くんの好きなものをなにも知らない。  ただふわふわしてたいだけだったら、もうなにも考えずにただ眺めていればいい。傷付きたくないんだったら、もうなにもしなかったらいい。  でも。私は彼の赤い耳が、脳裏から離れなかった。  早く前の記憶が掻き消えてしまえばいいのに。  私はそう思いながら、片手鍋で味噌汁をつくりはじめる。  記憶に残っているキスシーン。あれが未だに引っかかっている。どうにか押し込めようとしても、私がふわふわとした気持ちになった途端に出てきてしまう。怖いし、思い出したくないし、誰にも説明できない記憶だ。  まだ、ただふわふわとした気持ちを楽しみたいだけ。まだ、どうこうなりたいなんて微塵にも思っていない。  想うことさえ気持ち悪くなってしまうのなら、私には前の記憶なんて必要ない。
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