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今日は園芸部の予定はない。せいぜいまだ残暑が厳しいから水やりしてしまったら終わりだというくらいだ。
部活がないのに園芸部や天文部の使っている旧校舎に向かうのは、正直言って気が重い。特に、天文部に覗き見しようとする自分はなんなんだとついつい思ってしまう。
私は既に付き合っている人がいるのに。もう会わないって決めたのに。なんで前に好きだった人に会いに行こうとしているんだろう。
そう身勝手な自分が訴えるけれど、それに私は首をふる。
……これは恵美ちゃんが心配だからだ。
恵美ちゃんの柔らかい部分に篠山くんが入っていったらと思うと……正直、気分が悪い。
友達の破局の危機なのに、なんで自分のことばっかり考えるんだ。私は最低か。そう階段を一段進むたびに自己嫌悪が募っていく。
のろのろしていても階段はいつかは途切れる。気付いたら天文部の使っている科学室の前に辿り着いていた。
……なにもなかったら、それでいいんだ。
恵美ちゃんが変なことさえされなかったら、それで充分。
だって、今の篠山くんは私のことを知らないはずなんだから。
私はそう思いながら、戸の窓からそっと中の様子を伺った……。
中の窓は開けているらしく、黄ばんだカーテンがはためいている。
「ちゃんと彼氏と連絡取ったの?」
「……取れないんだよ。何度やっても繋がらない。もう駄目なのかな、あたしたち」
いつも聞いている恵美ちゃんの声よりも、一オクターブほど声が低いし、覇気がない。いつもの恵美ちゃんの快活さは、すっかりとなりを潜めてしまっていた……私たちとは、あれだけ普通にしゃべっていたはずなのに。
恵美ちゃんは行儀悪くも、科学室の丸椅子に三角座りをして、膝に顔をうずめてしまっていた。
彼女の癖のついた髪に、女子よりも大きめな手が伸びて、彼女の癖毛を伸ばすようにして撫でている男子。
その姿を見た途端に、鮮明に思い出してしまっていた。
彼はイケメンではない。黒い短く切り揃えた髪の男子が、制服を特に着崩すこともなく着ている。身長だって私よりは高いけれど、近藤くんよりも低い。中肉中背でないだけで、スタイルがひどくいい訳でもない。でも女家系のせいか、ひどく女子を安心させてしまうオーラをまとう、ごくごく普通の男の子。家事全般のせいか、手は年頃の男子よりも乾燥していて爪のあちこちがささくれ立っている。
……間違いなく、篠山くんだった。
篠山くんが心底困った顔をしながら、恵美ちゃんの頭を撫でていた。
「部に出てくれないと困るんだけどさ、あんまり彼氏のこと放っておくなよ?」
「ん……ありがとね、篠山」
男女間の友達にしては明らかに距離感がおかしいけれど、カップルにしては甘酸っぱい空気もけだるい雰囲気もないという、不可思議な光景。頭を撫でる篠山くんには、すこんと下心が消え失せ、普段は彼氏がいるために身持ちの固く警戒心の高い恵美ちゃんの警戒心が緩んでしまっている。
私はこれにどう反応しようと迷っていたとき、ふいに篠山くんの恵美ちゃんを撫でる手が止まった。
「ん、誰?」
そう言って戸の方へと向かってきた。
って、まずい……! 私は慌てて後ずさりするけれど、それより先にガラリと音を立てて戸が開いた。それに驚いて、ベチャンと廊下に尻餅をつく。
篠山くんは心底きょとんとした顔で、私のほうを見下ろしていた。
「ん? 入部希望? なわけないか」
「えっと……! と、友達が、今日元気なさそうだったから、様子を見に……!」
「あれ、木下のクラスメイト?」
それに私は首を縦に振る。
……当たり前だ。向こうが私のことを知っている訳がない。だって、今の今まで、話しかけたことすらなかったし、そもそも会ったことだってなかったんだから。
私は自分が挙動不審じゃないかと必死に考えるものの、頭がぐるんぐるんとしてしまって、上手く働いていない自覚がある。
こちらが勝手にぐるんぐるんしている間に、科学室の奥から恵美ちゃんが出てきた。
「あ、由良! 今日は用事あったのにどうしたの……!」
「うん……そうなんだけど、今日は恵美ちゃん様子がおかしかったから、どうかなと心配しちゃって」
「あー……ごめん、篠山。今日はまだ文化祭の準備ないよね? 友達迎えに来たから、先に帰るわ」
「おう、お疲れ」
私は恵美ちゃんのほうを見つつも、恵美ちゃんの傍に立っている篠山くんを盗み見た。
彼はあくまで平常心なのに、私は少しだけ「あれ?」と思う。
恵美ちゃんは彼氏とのことで揉めているんだから、それを慰めていた。それは私も盗み見ていたからわかる構図なんだけれど。
ここって、普通。ふたりはただの友達同士ですってアピールするところじゃないのかな。
篠山くんはいつだって、付き合ってる付き合ってないことははっきりと口にしていたはずなのに。それとも。
思い返すのは、瀬利先輩と付き合ってるという噂が流れたときのこと。あのときも、否定も肯定もしなかった。
なんで同じことを、恵美ちゃんにするの。
まさか……。一瞬思いそうになり、私は浮かんだ仮説を必死で否定した。いくらなんでもそれはゲス過ぎるし、恵美ちゃんに対して失礼だ。
私が勝手にぐるんぐるんと考え込んでいる間に、やんわりと篠山くんは口を開いた。
「ええっと、君も木下心配してくれたんだろ? 見てやってくれな?」
そうの穏やかな言葉に、私はどぎまぎするのを抑え込みながら頷いた。
「うん。ありがとう」
私は今、ちゃんと受け答えできているだろうか。なにも知らない恵美ちゃんが不審がるような声になっていないだろうか。努めて見知らぬ同級生としゃべっている体を保っていたけれど、私の心臓の激しい鼓動が耳について仕方がなかった。
……落ち着け。あっちは私のことを知らないはずだし、そもそも私は既にお付き合いしている人がいる。彼と私は赤の他人なんだから、変な邪推はしない。
自分にそう必死で言い聞かせながら、鞄を携えてきた恵美ちゃんと一緒に帰っていった。
手を振って見送る篠山くんにチクリとしたものを感じたけれど、それに気付かないふりをする。
前はさんざん吐き気がこみ上げてきて、実際に何度も洗面所に駆け込んだけれど。今は近藤くんのおかげだろう。吐き気も胸をつっかえるような気持ち悪さも襲ってこなかったことに、私は心底ほっとした。
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