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前回の訪問から一週間後、トトは再びギューリー家の門をくぐった。
師匠からいただいたお小遣いで、新しい服と流行りの色だというリップも買った。それらを身に着けて鏡の前に立ってみれば、いつもと違う自分に驚いたものの、似合っているかどうかはセンスのないトトには判断できなかった。
――グノーシス様はなんて言うかなあ……。
ギューリー家の長い廊下を歩いているうちに、なんだか全身がムズムズしてくる。知らず早足になるくせに、それでいて引き返したくもあるのだ。
なんとか辿り着いた広い居間では、グノーシスが満面の笑みで待ち構えていた。
「やあ、トト! ――おや!?」
駆け寄ってきたグノーシスは、挨拶を中断し、飼い犬がじゃれるようにトトの周りをぐるぐる回った。
いつもの地味なミニローブを脱いで、本日のトトの装いは年頃の娘らしいワンピースである。オフホワイトの麻の生地に、袖口や裾にはレモン色の糸で刺繍がしてある可愛らしいものだ。履きものは、これも流行中の厚底のサンダルである。傷んでボサボサだった髪も、オイルを塗ってきちんと結った。
自分にとってできることは、してきたつもりだが――。
審判のときを待つトトは、おどおどと上目遣いにグノーシスを見上げた。呪術師の不安を知ってか知らずか、グノーシスは無邪気にニコッと笑う。
「やあ、これはこれは! 『いいね!』したいところがたくさんあって、困ってしまうよ! うーん、すごく似合っている! この間のような呪術師スタイルもミステリアスで良かったが、今日はモデルか女優かというくらい完璧に可愛い!」
「ど、どうも……」
気に入ってもらえて良かったものの……。
一生分ほど褒めちぎられてどうしていいか分からず、トトは持っていた杖を両手でぎゅっと握り締め、耐えた。
グノーシスの流れるような戯言は、女子の喜びや楽しみなど捨てたはずのトトの身を、ムチのように叩く。
嬉しいというより、恥ずかしい。外見のことに触れられると、トトは冷静ではいられなくなってしまうのだ。
たいたいどうして、いくら師匠に言われたからと言って、自分はおしゃれなんてしてしまったのだろう。そこは頑固一徹に拒むべきだったのに。
――呪術にこの身を捧げたのに、浮かれたらダメじゃない……!
などと、トトは己を戒めるが。しかし実はそのような生き方を、師匠たち夫妻は推奨していないのだった。
「仕事は大事だが、それだけというのもつまらない。彩りのある人生を楽しもう」
テルノたちのポリシーを、トトなどは生ぬるく思えて不満だった。
――グノーシスに言い寄られるようになる、最近までは。
このままでは、自分が守ってきた全てを壊されてしまう。トトはキリッと勇ましい表情をなんとか取り繕った。
「ほ、本日は、あなたにかかっている呪いの、対抗手段となる薬をお持ちしました……」
「ああ、ありがとう、トト! それにしても、二週間はかかると言っていたのに、君は仕事が早いんだなあ! さすがだね!」
「……………………」
約束の薬が予定より早く完成したのは、張り切り過ぎたからだ。
グノーシスに会いたかったから、喜ばせてあげたかったから。
――別に媚びるつもりも下心もなくて、人道的見地から、困っている人を迅速に助けてあげたかったから! それだけだから!
自分自身に言い訳をしながら、トトは香水を入れるような小さな瓶をグノーシスに渡した。
「ほうほう。これを飲むと、呪いが解けるのかい?」
「いえ、正確には違います。あなたにかかった呪いはあまりに強力で、解くことはできません。だから――。発想を変えて、あなたの奥方となられる方に、呪いに抗える体質になっていただきます。その薬はつまり、奥方様のためのものです」
理解が追いつかないのか、グノーシスはパチパチと瞬きした。
「うーん? 蛇はそのままで……これを、僕の奥さんになる人に飲ませて……。そしてその女性は呪いに負けない体になるから……。ええと、つまりこの薬を飲んだご婦人とだけは、僕は最後までちゃんとセックスできるってことかい?」
「そのとおりです。ただし、この薬は一人分しかありません。だから不特定多数の女性たちと遊ぶことは、これを機にスッパリ諦めてください。でもただ一人、奥方になられる方とは、その、セ……が、できますから……! とりあえず、お子様をもうけることは可能かと」
「ほほう、なるほどなるほど」
グノーシスは少々棘のあるトトの説明に熱心に耳を傾け、最後には真剣な顔をして頷いた。
プレイボーイのこのお坊ちゃまに「今後、女遊びはできなくなる」なんて提案を持ちかけても、拒否されるのではないか。気がかりだったが杞憂に終わり、トトはホッと安堵した。
――少々、物わかりが良すぎるような気もするが……。
「ところで、この薬は無害かい? 僕のお嫁さんになってくれる人の体に、負担をかけたくないんだが……」
まだ見ぬ――それとも実はもう目星がついているのだろうか。未来の妻を気遣うなんて、グノーシスはやっぱり優しい男なのだ。
彼の妻となる女性を羨ましく思いながら、トトは質問に答えた。
「ご安心を。飲んだ方の健康を害するような成分は、一切入っておりません」
「それは良かった!」
言うが早いか、グノーシスは薬の入った瓶の蓋を開けた。そして乾杯でもするかのように、瓶を高く掲げる。
「あ……!」
なぜ今、開けてしまうのだ。
トトが止める間もなく、グノーシスは瓶に口をつけ、ぐいっと中身を煽った。
「えっ!?」
――この人はバカなの!?
人の話をちゃんと聞いていたのだろうか? その薬は伴侶に飲ませるものだと、何度も言ったはずなのに!
貴重な材料を使い、多大な時間を費やして作った苦労の結晶を、呆気なく無駄にされた――。呆然となるトトとの距離を、しかしグノーシスは瓶の中身を口に含んだまま、詰めた。動けないでいる若き呪術師の肩を掴み、そして――。
グノーシスはトトに口づけた。
「!?」
もちろんトトは抵抗するが、肩にあったはずのグノーシスの手がいつの間にか後頭部に回っていて、がっちり押さえつけられてしまっている。唇をずらすこともできないまま混乱と酸欠に陥り、手からは杖が滑り落ちた。
「んっ、んーーーーー! んんんーーーーー!」
藻掻いているうちに太い舌が入り込んできて、さらさらした液体を注いでいく。――なんだろう。
自分で調合したのだから、分からないわけがない。飲みやすいようにほんの少しミントの風味をつけた、抗・呪い薬。グノーシスの妻となる女性に与えられるはずだった薬だ。
息ができない苦しさのあまり、トトは薬を飲み込んでしまった。トトの喉がこくりと動くのを確かめてから、グノーシスはゆっくり離れていく。
「やあ、少し乱暴だったかな。すまないね」
そう詫びつつ、グノーシスはトトの唇の端から零れた薬を舐め取った。
「な、なななな……!」
トトはグノーシスを力いっぱい突き飛ばした――つもりだったが、逞しい彼の体は、わずかも動かなかった。
「なにするんですか!? あなた、人の話、聞いてました!? あれは誰かれ構わず飲ませていい薬じゃなくて――! ああもう! もうひとつ作ってくれって言われても、無理なんですからね!?」
「だから――」
「!?」
グノーシスはトトの顎を持ち上げ、素早くチュッと口づけた。今度はすぐに離れて、息のかかる距離で囁く。
「僕は君がいい。これから先、一人しか選べないなら、君じゃなきゃ嫌だ」
「!」
勢い? ヤケクソ?
――否。
グノーシスの青い瞳は、晴れの日の海のように穏やかで落ち着いていた。
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