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花壇の画像を差し込む枠は、もうすこし大きい方がいいかもしれない。
文章はだいたいできたから、あとは画像を入れ、微調整したら完成にできそうだ。
だが、肝心の画像がまだこない。
高校一年生の堀越真澄は、パソコンを使って「環境委員のお知らせ」を作成していた。
黒々とした髪の毛をボブカットにし、薄ピンク色のフレームの眼鏡をかけている。
通っている高校の制服はセーラー服で、真澄も紺色の生地の上下を身に着けている。
六月に入った昨日から衣替え週間になっていた。
夏服の準備はしてあるものの、他の女子たちの様子をうかがおうと思い、部屋のハンガーにかけたままにしている。
今日あたりから、だいぶ夏服の白い姿が増えてきたので、明日には真澄も夏服にしようと思っていた。
「おそい」
花壇の画像がまだこない。
それがないと、お知らせを完成させられない。
ヒマなので、さっきから手元のノートに落書きをしていた。
国民のだれもが知っているアニメ『ヌラえもん』だ。
保育園児の頃から描いているので、我ながらハイクオリティな落書きになっていると自負している。
首の鈴の部分を描きこんでいると、がらっとパソコン室のドアが開き、同じクラスの男子、井原司が入ってきた。
井原の髪の毛は目にかかるほど伸びており、あまり身だしなみを整えようという意思を感じない。
すでに夏服に衣替えしており、半袖のポロシャツ姿だった。
「ごめん。時間かかった」
「まあ、いいけど」
井原が差し出した古いデジカメを受け取る。
デジカメは学校の備品だ。
スマホで簡単に撮影から編集までできるこの時代に、「私物端末の使用禁止」という理由だけで、わざわざ手間暇かけて写真撮影をせねばならない。
パソコンに取り込むにしても、ケーブルでつなぐ必要がある。
マウスで操作して、画像ファイルがパソコンにコピーされるのを待っていると、校内放送で『蛍の光』が流れ始めた。
つづいて放送委員の、最終下校時刻を知らせるアナウンスが流れてくる。
「コピーとファイルの整理だけやって、残りは明日にしよ。井原は帰っていいよ」
「え、でも悪いし」
画像の取り込みが終わったデジカメからケーブルをはずし、それを井原に渡す。
「これ、職員室に返しといて」
真澄も、どうせあとでパソコン室の鍵を返しに職員室に行くのだが、とにかく井原と同じ空間にいたくなかった。
「じゃあ」
「じゃあね」
パソコンの作業に集中するふりをしながら、目をあわせずにそれだけ言う。
やがてドアが開く音がして、井原はパソコン室から出ていった。
「ふう」
手をマウスから離し、ひとつため息をつく。
「なんで、わたしが井原と同じ委員会なのよ」
先日、クラス会議で委員決めがあったのだが、真澄は風邪をひいて休んでしまった。
翌日に登校してみると、勝手に環境委員のメンバーに選ばれ、なおかつ、たまたま同じ日に休んでいた井原までもが環境委員になっていた。
「そして、なんであいつは普通に話してくるのよ!」
入学して半月ほど経ったころだろうか。
高校ではじめての中間テストが控えている中、真澄は休み時間も使って必死に勉強していた。
中学では、ずっとクラスで一番の成績だったので、高校でも同じように一番をとってやろうと意気込んでいたのだ。
そこでふと隣の席を見ると、漫画を読んでいる井原の姿が目に入った。
真澄の通う高校は、漫画の持ち込みは禁止されていない。おおっぴらに許可されているわけでもないが、規制されているわけでもない。
そこで生徒たちは、自分の好きな漫画の単行本を持ち込んで読んでいたのだが、それでも先生の目が気になるのか、こっそりと読んでいる感じだった。
だが、井原司は違った。
登校したらすぐに漫画を取り出す。
休み時間のたびに漫画を読む。
昼休みは漫画を読みながら弁当を食べる。
真澄の中で「こっちは真面目に勉強してるのに!」という思いが募っていき、ついにある日、言ってしまったのだ。
「マンガばっか読んでないで、勉強したら」
隣の席からとつぜん注意を受けた井原は真澄の方を振り向くと、短く「ごめん。オレ、漫画すきだから」とだけ返し、また漫画の世界へと戻っていった。
淡白な返答も悔しかったが、それ以上の衝撃はそのあとに待っていた。
一学期の中間テストで、井原司はクラスで一位の成績をとったのだ。
「勉強したら」と注意をした真澄は、井原に次ぐ二位。
とうぜん、井原からなにか言い返されることを覚悟したが、普段どおり、休み時間になるたびに漫画を読んでいる姿があるだけだった。
相手にされていない。
そう感じた真澄は、復讐心に燃えていた。
「おのれ、井原。期末テストこそは、わたしが勝つ」
時刻は十八時を過ぎている。
西日の差すパソコン室では真澄の影が長く伸び、廊下側の壁にかかっていた。
手でオオカミの影絵を作り、ぱくぱくと動かしてやる。
「わたしの魔の手が伸びていることを知ったときには、すでに遅いからね」
そう言って、井原が出ていったドアをバクリと食べさせた。
***
ぷしっと、すぐそばで缶ビールを開ける音がする。
「というわけで、わたし勉強したいんだけどな」
「あっはっはっ」
二本目に突入した姉は、すっかり酔いを感じさせる笑い声をあげた。
真澄の家族はマンション住まいだ。
マンションは住宅街のど真ん中に建っていて、学校へは電車で二十分ほどの距離。
物心ついたときから住んでいるので深く考えたことはないが、駅からも近いし、便利な立地なのだと思う。
夕飯やお風呂を済ませると、両親はさっさと自分たちの部屋に引っ込んでしまった。それぞれ、趣味の読書や映画を堪能しているようだ。
居間に残されたのは、真澄と、大学三年生になった姉で、姉はテレビを見ながらビールを楽しんでいた。
真澄は勉強したいのだが、酔った姉がしつこく話しかけてくるので集中できない。
「あんまり無理しない方がいいよ。あんた、ガッカリ秀才なんだから」
「ガッカリ言わない! ちゃんと秀才だし!」
「ようは、その男の子への逆切れでしょ? 攻撃したから反撃されたってだけじゃん」
「違うもん!」
シャーペンを持った手で、ダンッとテーブルを叩く。
だが、その勢いはすぐに減速していった。
「反撃すら、されてないし」
「ちょーだせー」
「くっ」
言われなくても、真澄が一方的に井原を敵視しているだけだということはわかっている。
井原にとってみれば、勝手に漫画を読んでいることを注意され、勝手にテスト結果で妬みを抱かれ、挙句の果てには、そんなやつと同じ委員会のメンバーになってしまったのだ。
姉の言うとおり、どう考えても井原の方が被害者だ。
「素直に謝ればいいのに。好きなんでしょ、その子のこと」
「え? なんで、そういう発想になるの?」
思わず真顔で聞いてしまった。
「違うの? だから気になってたんじゃないの?」
「違うし。やめてよね、その恋愛脳」
「ふうん」
姉が空になった二本目を、カンッと置いた。
「じゃあ、つぎ負けたら、その子の前で三回まわってワンと鳴きなさい」
「いや、わけわかんないから」
「それとも、やっぱり期末テストも負ける予定なのかな?」
もちろん負けるつもりはない。
だからこうして、勉強しようと頑張っているのだ。姉に邪魔されながらも。
「わかった。やる」
「よしよし」
「で、お姉ちゃんはどうなの? 三年生こそ彼氏つくるとか言ってたけど」
次のビールに突入しようとしていた姉がその場に崩れ落ちる。
「三回コクって全滅? 月一ペースじゃん。やめなよ、告白テロは」
酔っ払いの相手は非常に面倒くさかった。
***
翌日の五時間目は移動教室だった。
真澄はお弁当を食べたあと、早めに理科室に移動していたのだが、教室に忘れ物をしたことに気がついた。
ガヤガヤと集団で歩いてくるクラスメートたちと、すこし小さくなりながらすれ違い、教室の前までやってくる。
今日は夏服で登校した。
速足で移動してきたのですこし息が切れているが、通気性のいい服装のおかげで汗はかかずに済んだ。
教室のドアを開けようとしたとき、「堀越さんってウザくない?」という声が中から聞こえ、ギュッと胃が縮まるのがわかった。
反射的にドアの横に身を隠す。
「わたし勉強できますって顔しててさ。それなら井原くんの方ができるじゃん」
「うん、まあね」
井原の声。もうひとりは、クラスの女子のようだ。
真澄がクラスメートから距離を置かれているのは知っている。
休み時間はずっと勉強ばかりしているし、他の人と話すのが得意なわけでもない。
だからといって、自分の陰口を聞いて平静でいられるわけがない。
緊張で呼吸が早くなる。
「それに、わたし見ちゃったんだよね」
女子が続ける。
「堀越さんが井原くんに、漫画ばっかり読んでるんじゃないって言ってるとこ」
心臓が跳ね上がった。
「それで井原くんに負けてるんだから、あいつ口ばっかだよね」
「あれはオレが悪かったんだよ」
「え? 井原くんは悪くないでしょ」
本当にそうだ。
心の中で、自分の悪口を言ってる女子に同意する。
「だからわたしたち、堀越さんを無視することにしたの。井原くんもそうしなよ」
嬉々とした声。
この手の人間は高校生になっても変わらないのだな、と思った。
一方で、しかたがない、とも思う。人とうまくやれない自分にも責任があるのだ。
ましてや、井原に対して理不尽な感情をぶつけてしまったのだから、嫌われるのは当然だ。
だから――勉強をしなくてはと思う。
いい成績さえとれば、すくなくともその点では自分に自信を持っていられる。
昔から、そうやって自分を守ってきたのだ。
「堀越を無視するなら好きにすればいいけど」
教室の中から井原の声が聞こえてきた。
「あまりやりすぎるようなら、先生に言うから」
「は?」
「五限目はじまるよ。移動しよう」
ガタッと椅子を引いて立ち上がる音がする。
真澄は慌ててその場を離れると、女子トイレに逃げ込んだ。
個室に入って、さっきの出来事について考える。
なんで、井原は真澄をかばったのだろうか。
漫画のこともそうだし、昨日の環境委員会のお知らせづくりのときだって冷たい態度をとった。
それなのに、漫画を注意されたのはオレが悪いと言うし、真澄を無視しようと誘う女子をけん制してくれる。
昨夜の姉の言葉が脳裏に浮かんだ。
もしかしたら、わたしのことが好きなんだろうか。
さっきとは違う意味で鼓動が早くなり、顔に血がのぼっていく。
胃までグルグルしてきて、思わず「おえっ」とえずいてしまった。
「だめだ。状況変化に身体が追いつかない」
五限目は保健室で休んでいようと決め、よろめきながらトイレから出た。
***
夕日の差し込む放課後のパソコン室。
パソコンの前に座り、ノートに落書きをしながら待っていると、しばらくして井原がやってきた。
「堀越? 早退したんじゃなかった?」
「保健室にいただけ」
かばんは保健室の先生に取ってきてもらっていた。
しばらく寝ていたら落ち着いたので教室に戻ってもよかったのだが、昼休みの話を聞いたあとだから気まずかったのだ。
かといって、まっすぐ帰る気にもならなかった。
環境委員のお知らせづくりが終わっていなかった、というのもあるが、井原に話しておくことがあった。
「井原はさ」
ぽつりと口を開く。
「悪くないよ」
井原が、なんのことだろうと首を傾げる。
しばらくして、なにかに気づいたような顔になった。
「あ。聞いてた?」
「ちょっとだけね」
実際はがっつり聞いていたが、盗み聞きしていたと思われたくないので下方修正しておく。
「わたしが悪かったの。あんなこと言うべきじゃなかった。ごめんね」
「漫画のこと? あれはオレが悪いんだと思う」
「え、なんで?」
なぜそんなにも自分のせいにしようとするのか。
やはりわたしのことが好きなのだろうか。
かすかな期待を込めて聞いてみると、「だってさ」と井原が言った。
「堀越って、漫画、大好きじゃん」
「え……う……なぜ」
真澄の顔から血の気が引いていく。
「授業中、キャラ消しゴムを見ながらニヤニヤしてるし、下敷きも、一見それと気づかれないデザインの使える系だし。漫画すきでしょ?」
見られていた。
だれにもバレていないつもりだったのに見抜かれていた。
井原がつづけた。
「で、そんなに好きな漫画を我慢していつも勉強してるから、横でオレが漫画読んでるのが気に障ったのかなって思って」
そこまで気づいていながら漫画を読み続けていた井原もどうかとは思うが、真澄がどうこう言う筋合いでもない。
ただ、ひとつだけわかったことがある。
「井原って、ものすごくマイペースなんじゃない?」
「うん。よく言われる」
目にかかっている髪の毛も、衣替えの初日から夏服を着てくるのも、休み時間に読み続ける漫画も、すべて井原のマイペースな性格を表していたのだ。
真澄が横でじたばたしていることなんて、本当にまったく気にしていなかったのだろう。
「はあ」
頭をかかえる。
すべて真澄自身のせいとはいえ、どっと疲れが襲ってきた。
「ヌラえもん!」
とつぜん井原が放った大きな声に、真澄は飛び上がった。
「え、なに?」
「ヌラえもんじゃん! これ、堀越が描いたの?」
井原が指さしているのは、さっきまで真澄が描いていた落書きだ。
ヌラえもんとトビ太くんが喧嘩している絵。
「そう、だけど」
「すごいな! 堀越、すっごい絵がうまいじゃん!」
普段、髪の毛でよく見えない井原の目。
その目は、とても無邪気に、本当に心の底から真澄を称賛していた。
「う……」
ズルい、と思う。
こんなのに勝てるわけがない。
西日に照らされて、二人の影がパソコン室の壁まで伸びている。
それを見ながら、真澄は両手を頭にそえて耳の形を作った。
なにをやっているのかと思ったのだろう。井原も壁の影絵に視線を向ける。
「キツネ?」
「キツネじゃなくてイヌ!」
反射的に怒鳴ってしまったが、キツネでもいいか、と思い直した。
ひょこひょことキツネの耳を動かす。
「コン、コン、コン」
井原は、じっと影絵を見ながら考え込んでいた。
ややあって口を開く。
「どういうこと?」
「まだ……あんまり、負けてないってこと。期末はわたしが勝つからね」
プライドを捨てきれない自分がすこし嫌になった。
かばんを持って立ち上がり、「帰る」と言う。
「お知らせは?」
「終わった」
環境委員のお知らせは、井原を待っている間に作り終わっていた。
あとは先生に提出して配布してもらうだけだ。
「あ、堀越」
ドアに向かう真澄を、井原が呼び止めた。
なにかと思って振り向く。
「勉強ばっかしてないで、ちょっとはマンガ読んだら」
きょとんとする真澄に、井原が微笑んだ。
「これでチャラ」
怒るべきか笑うべきか、ちょっと迷ってから、こくりと頷く。
「そうする。今度、おすすめ教えて」
驚いたような表情を浮かべる井原を見て嬉しくなった。
「じゃあね。また明日」
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