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chapter01
ランザスの花が咲き始める早朝、ナチョは渋々目を覚ました。
ナチョは仕事中ぐらいしか素面の時がないし、酔ってなくても手が震えるし言葉も思い出せないし立ち上がれないことも多い。とはいえナチョは仕事中は素面なので、珍しく仕事のあるこの日は明け方に目を覚ましたのだ。
「……くそっ!」
この仕事のために二日前から酒を抜いていたせいでナチョのマインドは最悪だった。素面になるとあらゆる体の不調にも気がついてしまうからよくない、がナチョの持論だ。そこからもナチョの可哀想さはよく分かるだろう。
「……あー……飲んじゃならん……飲んじゃならねえ、酒飲みてえ……くそっ! ……どうして俺はこう……」
ナチョはベッドから転げ落ちた後、床を這って寝室から抜け出した。
ナチョの家は広い。
ナチョの唯一持っている財産であるこの一軒家は一般家庭の十倍はあるし庭もあるし屋上もあるし屋上にはジャグジーもついている。ナチョはジャグジーに温水をはってプカプカ浮かびながら酒を飲むのが好きなのだが、そんなことをしているからより早く酒が回るのだ(これは余談である)。
ナチョはそんな広い家の廊下をほふく前進で進んでいった。
「……だりぃ……」
そして道半ばで力尽きたところで玄関から扉が開く音がした。その音を立てた人間は足音をたてずにナチョのもとへやってきた。
「起きていたのか、ナチョ」
そんな風に這いずるナチョに温厚な笑顔で声をかけた男がこの話のもうひとりの主人公であるクラッチだ。
本名はバクシーバ・ウォンターだがそんなことを知っている人はこの世でほとんどいない。今となっては彼自身覚えているかさえも謎だ。歳は四十手前でナチョよりいくつか年上なのだが、彼らの見た目年齢は逆転している。それだけナチョが年寄りに見え、クラッチは若く見えるのだ。それにクラッチはいつも愛想よく笑っているので、ナチョと並ぶと良く見える。
とはいえクラッチは足先から髪先まで大麻漬けだ。
青い目はいつも少し飛んでいるし、本当にブッ飛んでいるときは酔ってるナチョとは比べ物にならないほど話にならない。読者の皆様には先に分かっていてほしいのだが、彼らの倫理はほとんど残っていない。
爬虫類のような目でクラッチはナチョを見下ろした。
「えらいぞ。ひとりで起きられたな、よしよし。ハグしてやろうか?」
「……随分な挨拶じゃねえか……」
「きったねえ顔だな、おい。風呂とジャグジー、どっちがいい?」
「……バスルーム。朝日が眩しい……」
「わかった。ほら、腕あげろよ」
「ハグか?」
「ばーか」
クラッチはナチョを抱き上げてリビングのソファーまで運ぶと「待ってろよ」と言ってからバスルームに向かった。
残されたナチョはソファーの背もたれに頭を預け「ううう」と呻いた。素面の時のナチョは大体いつも呻いているからこの先この呻き声の描写は割愛しておく。
ナチョは両腕で目元を覆うとボロボロと泣き始めた。
「つらい……つらいよぅ……」
ナチョはつらくなるとすぐに泣いてしまう。酒によってあらゆるストッパーが緩くなっているのだ。
バスルームから戻ってきたクラッチは静かに泣いているナチョを見て困ったように笑った。
「ナチョ、どうしたんだよ今度は?」
「……どうせ俺はアル中のクズだよぅ……」
「はーまた……なーに言ってんだよ、ナチョは最高! 最高の俺の相棒だ! ほら起きろって。二度寝は禁止だぞ? ほーら、ほらほら、ほらほら……」
クラッチがナチョの頬をぱちぱちと叩くとナチョは薄く目を開いた。紫の目からぽろぽろと涙が落ちる。
「運んでくれ……」
「はいはい」
クラッチはナチョを担ぎ上げると、そのままバスルームに運んでいった。ナチョは脱衣室に置かれると「ごめん」とクラッチに謝ってから風呂に入った。クラッチは「いいさ」と答えてから朝食を作りにキッチンへ向かった。
彼らの関係を一言で説明するなら、雇用関係だ。
ナチョはクラッチをハウスキーパー兼運転手兼ボディーガード兼その他もろもろとして雇っている。その金がどこから出るのかというと、ナチョの仕事からだ。もうロイドの財産は残っていないのでナチョは自分で稼いでいる。そしてそのナチョの仕事は少し(いやかなり?)特殊である。
「今日の仕事、そんなにハードなのかい?」
呻くナチョを助手席に乗せて、クラッチはトヨタのクラシックカーを運転する。今日の仕事場までナチョを送るのはもちろんクラッチの仕事なのだ。
余談だがこの車は若かりし頃にクラッチがパーツを集めて動くようになったものなのだが、今のクラッチがその事をどのくらい覚えているかは謎である。
ナチョは助手席でメソメソ泣きながら「いいや」と言った。
「いいや別に……俺が行けばいいだけの仕事なんて大したことじゃねえよ……」
「ナチョ、そんなに泣くと目が開かなくなるぞ」
クラッチは煙草(もしかしたら大麻かもしれない)を吸いながら、なるたけゆっくりと走行することにした。このあたりは住んでいる人がいないから走行速度など関係ないし、例えなにがいたとしてもクラッチはナチョ以上に優先はしない。
「ナチョ、お前の仕事はお前にしかできないだろ?」
「そんなことねえよ、クラッチ、……俺はもう必要とされてないんだ……」
「そうだったら今日の仕事はこなかったはずだろ? 自信を持て、ナチョ」
「違うんだ、俺は同情されているだけなのさ……落ちぶれたなと……うう……」
ナチョのいつものぐすりをいつものようにあやしながらクラッチは煙を吐く。めそめそと泣くナチョの声を聞きながらクラッチは少し(いやかなり?)前のことを思い出していた。
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