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chapter02
それは雨のマンハッタンだった。
その頃のクラッチは今ほど薬には浸かっておらず、とはいえ今とさして変わらない生活をしていた。金持ちの家を掃除したり、その子どもの相手をしたり、ちょっと危ない人をボコボコに殴ったり殴られたりする、そんな生活だ。クラッチはこのままぼんやりと死んでいくんだろうと思っていた。
しかしとにかくそれはマンハッタンだった。
人通りのない深夜の裏通り、街灯の光さえ霞むスコールのような雨。クラッチはクライアントから酒と煙草とスナックを買ってくるように頼まれて嵐の中を歩いていた。雨合羽の中に買ってきたものを隠して、雨に濡れてもを口ずさみながら歩いていた。
嵐が来るからと大半がストでクローズ、こんなときに出歩くのは低所得者以外あり得ない。しかしここはマンハッタン。クラッチは『最高のコンサートホールだ』なんて思いながら歌っていた。余談だがクラッチの声はしゃがれているが色っぽい。
そんな上機嫌のクラッチがクライアントの家にたどり着いたとき、その高級マンションの塀にもたれて立っている青白い全裸の男がいた。
クラッチは最初それをマネキンかと思った。こんなところにマネキンを捨てるなんて迷惑なやつだ等と思いながら近づいて、どうもそれが人間らしいと気がついた。長い前髪が雨に濡れ顔にベッタリと張り付いていて、口元しか見えなかった。
クラッチは驚きのあまりその男の全身をくまなく見てしまった。痩せた体はすっかり縮こまり、その足はぷるぷると震えていた。
クラッチは少し考えた後「……大丈夫かい?」とそんな風に男に声をかけた。
その男はその声かけで初めてクラッチに気がついたようだった。彼は口を動かしたがその声は雨にかき消された。
クラッチは『傘を持っておけばよかった』と思った。そしたらこの男に傘を差し出せたのに、そう思いながらクラッチは男の腕をつかんだ。
「大丈夫かい?」
その耳に口をよせてもう一度聞けば男もまたクラッチの耳に口をよせて「……なにも……」と言った。クラッチが「……なにも?」とその先を促すと、男はいきなり顔をあげた。
「なにも! そんなことしたって焼け石に水だってことを俺は知ってたんだ! なにもしなかったと一緒なんだ! そんなの!」
雨の中でも通る声だった。
髪の隙間から覗く瞳は緑に輝き、まるで炎のようだった。揺れた赤毛が貼り付いた頬は血の気がなく、今にも死んでしまいそうだった。
「……知っていてなにもしてやらなかった。俺の罪だ……なにもかも……なにも大丈夫じゃない……」
男からは酒の臭いがした。
「お前、……ここはマンハッタンだぞ。ヒッピー最高でもいいけどよ、服は着ろよ」
クラッチは色々と考えてからそう言った。男は、しかし力尽きたようにクラッチに向かって倒れてしまった。クラッチはとっさに彼を体で受け止め、そして自分の腹と彼の間でスナックがつぶれる音を聞いた。
――その次の日。
昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡っていた。クラッチはクライアントのひとりが貸してくれているマンハッタンの片隅にある倉庫のような部屋でぼんやりと大麻によるストーンを楽しんでいた。ずとんと体が落ち込むようなその感覚の中で、クラッチは様々なことを徒然と考えては忘れていった。
「ううう……」
その思考をたちきるようにその呻き声が聞こえ始めた。クラッチはぼんやりとその声の主を見た。倉庫の片隅、マットレスの上に寝かされたその男はどうやら目を覚ましたらしかった。
男の赤毛は乾くと明るく燃える炎のようだった。
男はゆっくりと起き上がった。
「……どこだ……ここは……」
「家だ」
「……これが、家か?」
「壁もある。屋根もある。あとなにがいる? 犬でも飼うか? 裏に野良がいる。連れてこよう。満足か?」
男はようやくクラッチを見た。クラッチもまたようやく男の顔を初めて見た。
その男は存外美しい顔立ちをしていた。男はゆっくりとまばたきをしてから、また呻いた。
「俺は……………また記憶をなくしてるのか?」
「昨日の話をしようか。俺は赤毛の濡れ鼠を拾ったんだ。そいつは雨の中、全裸でぶっ倒れたんだよ」
「……全裸……まじか……」
男はのろのろと立ち上がり自分の着ている服を見て「お前のか?」とクラッチを見た。クラッチは頷き「やるよ」と言った。男は少し考えた後「ありがとう」と笑った。
「今度、礼をする」
そんなことを言ってナチョは去ろうとした。が、できなかった。立ち上がったクラッチがナチョの腕を掴んだからだ。
不思議そうにナチョはクラッチを見上げた。
「クラッチだ」
実はクラッチが自分からそう名乗ったのはこれが初めてだった。だが今となってはどうでもいい話だ。
「……イグナチオ・フォン・ロイド……ナチョって呼んでくれ」
この日からクラッチはナチョのそばにいる。
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