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私がその男と出会ったのは、ひどく蒸し暑い夏のことだった。
盆の期間にとった休暇の終わり、既に親族との用を済ませた私はふと思い立って海辺の町へと出向いていた。
その町は辺鄙で、道路を走るバスも数時間に一度、タクシーは勿論、自家用車すら殆ど見かけないほどの過疎ぶりであった。
その町の住人のための八百屋や、あるいは精肉店などが立ち並び、時折古めかしい宿があるような通りを私は滲む汗を拭きながら歩いていた。
ちょうど見かけた老夫婦の営む喫茶店に入った私は、その老夫婦そっくりに老いた品書きの中からアイスコーヒーを注文し、出入り口に掛けられた風鈴の音と、歪んで見える外の景色とをぼんやりと受け止めながら、仕事の再開を憂いていた。
「もしよろしければ」
男は、空いている席を無視して私にそう声をかけた。そこはかとなく清潔な感じのする男で、声もどこか夏の風情がある爽やかなものだった。
私は特にひとりで過ごすという目的があったわけでもないので、男の相席を許すことにし、自分の向かいの席を手で示すと、男は少しばかりはにかんだ後で椅子を引いた。
「旅のお方ですね」
「ええ、休暇中で」
それはそれは、と続けると、男は糊の効いた白い開襟シャツの胸ポケットからこれまた白いハンカチを取り出して汗を拭いた。
髪は短く揃えられ、歳の割に(見たところ男は私と近い歳、つまり四十代らしかった)艶のある黒色をしていた。顔も端正なつくりをしていた。
動作ひとつとっても妙に丁寧で、それはまるで必要以上に大事に、貝殻を掌に載せる少女のような所作だった。
少女的だと私が感じたのは彼の顔立ちや振る舞いが原因ではなく、もっと漠然としたイメージからくるものだった。
皺のひとつひとつが繊細で、人間的な汚れを持ち合わせないような、そんな潔白なイメージ。
男が汗をひと通り拭き終えると、「ご相席でよろしいですか」と老婆が水の入ったグラスを持ってくる。
男は頭を軽く下げそのグラスを受け取り、手にしていたハンカチでその水滴を拭った。 彼は潔白な人間であると同時にかなり神経質な人間なのかもしれないという考えが浮かんだのは、この時だったように思う。
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