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男がアイスコーヒーを注文すると、返事もなく老婆は去っていった。
「失礼ながら、不思議な質問かとは思いますが……」
男は引き続き会話の手綱を握り、私に声をかけた。何かを躊躇うようにして少し言い淀んで、それから、
「歌はお聴きになりますか」
と言った。
確かに、不思議な質問だった。
「人並みには……。ただそれほど造詣が深いというわけでは」
「成程。いや、というのも僕も旅でこの町を訪れた身でして……、実は歌手をしているのです。決して有名では、ありませんが」
「それは、なんというか珍しい」
「ハハ、お気遣いいただかなくて結構ですよ。つまるところフーテンみたいなものです。一応他にも簡単な仕事はしますが」
「そうでしたか。それで……」
「ええ、失礼。この町に伝わる歌をご存知ですか」
私は少し、この町へ向かうバスの中でそんな話を聞いた気がして思い返してみたが、どうにもその中身が思い出せなかった。
「まあ、正直に申し上げればそれ自体はさほど面白くもない、よくある人魚伝説をモチーフにした民謡のようなものです」
「成程」
話がこれからといったところで、老婆がアイスコーヒーを二杯、テーブルへと運んでくるのが見えた。男は話すのをやめ、そちらへと目線をやりながら一度ポケットにおさめたハンカチを再び手元に取り出した。
「ええと、それで……」
男がアイスコーヒーの入ったグラスの水滴を拭き終えるのを待ってから話の再開を促すと、彼は深く頷き語り始めた。
「僕がこの町を訪れるのは、二回目なのです。もう何年も前のことですが、その民謡に興味を抱くようになったきっかけの人物がいます」
「話を遮って申し訳ない。失礼ながら、何故その話を私に?」
私は純粋な疑問を男に投げかけた。風鈴の音がして、それからほんの少しの間をおいてぬるい風が私と男の間を抜けていった。男はまた、ハンカチで汗を拭う。
「耳の形です」
「耳?」
「つまり、正直に言って僕は貴方の耳の形が気に入ったんです」
不思議の多い男だ、と私は思った。耳の形? 妻にもされたことのない褒められ方だった。どころか、これまで生きてきた四十年近くの中でも初めての経験だった。
「これから話すある人物の、耳の形によく似ているのです。貝殻や、あるいは海の渦のような巻く形の綺麗な耳を見てお声がけしました。失礼だったでしょうか」
男は不安げにこちらを見ていた。その目の奥は、深い黒色で、見ているこちらが不安になるような色だった。深海のような……。
「いえ、決してそんなことは。嬉しいですよ」
私がそう言うと、良かった、と文字通り男は胸を撫で下ろした。
「それでは、僕がかつてここで出会った女の話を。それは、ちょうど今の貴方と同じように夏の休暇中の出来事でした……」
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