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それは、ちょうど今の貴方と同じように夏の休暇中の出来事でした。
当時の僕は、金銭的な理由から、いや、あるいはそれは単に精神的な問題だったのかもしれませんが、とにかくそんな俗っぽい悩みを理由にして命を断つことばかり考えていたのです。
この町に赴いた理由も……、ええ、崖からの身投げを考えていたからでした。海の藻屑になって、少しばかり魚達に餌を与えてから消えてしまおうと、そう思ったのです。
貴方がそうしたように、僕もバスに数時間乗りこの町へとやって来ました。
不思議なものですね。
何故人は海や山のような大きなものに包まれて死のうと思うのでしょう。無垢な胎児に戻りたいという無意識の発露なのでしょうか。そう、大人になるほど無垢に憧れるもので……、いえ失礼、そんなことはどうでも良いのです。
まあ、とにかくです。発見されるおそれの少なく、それでいて崖があるこの場所は、僕にとって絶好の土地だったのです。
その日は例年より暑く、家から家へと歩けば喉が枯れるほど、熱気が渦を巻いていましたから、僕もどうも頭がぼうっとしていまして……、とりあえず宿にでも泊まってひと休みしてから、死にに行こうと思ったわけです。
宿に向かう道中、蝉がよく鳴いていました。みいん、みいん、みいんと。そのことをよく覚えています。
都会の暑さから逃れるためにやってきたのに、ここでも暑い思いをしなければならないなんて、とそんなことを考えながら歩いていると、宿に着いていました。
その宿は妙に近代的で、……今もまだあるのか知りませんが……、とにかくその宿には小綺麗な洋風のロビーがあったのです。
窓から見える、熱気で歪んだ景色とは対照的に、そのロビーには涼しげな雰囲気がありました。
えんじ色のカーペットに茶色い革製のソファがありまして、その正面には膝ほどの高さのテーブルも。そういったひとつひとつの調度品が、鮮明に記憶されるよう配置されているかのようでした。
僕は受け付けを済ませ、部屋に荷物を運び、それからまたロビーに戻りました。そのロビーには自動販売機がありましたので、何か飲み物を、と思ったんです。
僕が女に初めて会ったのは、その時でした。
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