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「鱗……、ですか」
「ええ、その通りこれは鱗です。ですがただの鱗ではないのです」
男はそう言うと、畳み直したその白いハンカチでグラスを拭き、中にあるコーヒーを一気に飲み下した。
男は短く溜息を吐き、グラスをテーブルに置き直した。それから店の奥に座っていた老婆を呼び戻すと、
「失礼、アイスコーヒーをもう一杯いただけるでしょうか」
と伝えた。
「まさか、人魚の鱗……、だなんてことを言うわけではないですよね」
私の問いに、男は答えなかった。
その代わりに、手に持った鱗を窓から入る光で照らした。
やはりそれは、汚れひとつない、いわば完璧な鱗だった。
オパール色をしたそれは妖しい魅力を放ち、ただひとつの物質としてではなく生命としての美しさを錯覚させるものだった。
この鱗を持つのは、一体どんな生き物なのだろう……。気がつくと私はそんなことを考え始めていた。
老婆が男にアイスコーヒーを運んできた。今度は、男はその水滴を拭うことはしなかった。
「彼女は……、」
男は言いかけてもう一度溜息を吐き、私の目線を見て思い出したようにグラスを拭き始めた。
「すみません。彼女のことを思い出してしまっていたのです。実を言うと、彼女はもう、ここにはいないのです」
男は真っ直ぐにこちらを見つめ、鱗を差し出した。私はそれを受け取り、そして彼の目を見つめ返した。そこにあったのは、確かに孤独な空虚だった。私の目に映る、この男の深海は想像よりも遥かに深く、そして暗い……。
「その鱗は、ある意味での切符なのです。貴方がそれをどうするかは自由です。ですが……、とにかく僕は貴方にこの話がしたかったのです」
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