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「人魚は、いるわ」
女はそう言ったのです。
波の音も吸い込まれそうなほど暗い夜でした。
女は僕に歌を聴かせてくれました。もはやそれは、言葉を尽くせど陳腐になってしまうほど、美しいものでした。その発声の全てが、肉体のことなど忘れてしまうほど蠱惑的で、お恥ずかしいのですが、僕はその歌を聞きながら涎を垂らしていたほどでした。
そんなことのあとで、僕と女はしばらく話をしていました。
ギターを片手に話す彼女の声は、幻想的な趣を持ってどこかへと響いて消えていきました。残ったのは、弦の震える小さな音だけです。
「人の歌が何のためにあるのか、貴方は知ってる?」
そう続ける彼女に、僕は何も返事が出来ませんでした。僕が黙って首を振ると、彼女はこう説明してくれました。
「人の歌は、自らの穢れを吐き出すためにあるの。その穢れを受け入れて、前に進むために歌はある。この意味って、わかる?」
分からない。僕は、そう答えました。
「自分の不完全さを許すことが歌の役割なの。この世に、完全な人間なんていないから。歌は、不完全な人のためのものなの」
彼女の言っていることは、僕には少し難しかった。だから僕はその話を黙って聞くことにしました。
「でもね、この世には完璧な歌がある」
彼女はギターを弾く手を止めて、立ち上がりました。その夜のことはよく覚えています。彼女の声にはほんの僅かな震えが混じっていて、僕が彼女に対して人間臭さを感じたのはそれが最初で最後のことでしたから。
女はそれだけ話すと、もう伝え終えたとでもいった様子で帰っていきました。
ここまで話したのですから、正直に告白すると、僕はそれから、彼女の後を尾けたのです。
彼女が住んでいたのは海の近くにある小屋でした。
僕はそこで、もう一度彼女に何か声を掛けるべきか、考えました。あなたは、人魚に会ったことがあるんですか。人魚の歌を聴いたことがあるんですか。思い浮かぶ言葉はどれも安っぽくて陳腐でした。
しばらくそうしているうちに、その小屋の中から、彼女のすすり泣く声が聞こえてきたのです。
もはやそれは、人の声のなせるものではありませんでした。ひどく深い悲しみの底から湧き出るような、そんな音色でした。
僕は我慢できなくなり、すぐさま小屋の扉を開けました。古い扉で、かなりの力を籠めないと動かなかったので、殆ど体当たりのような形で。
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