うろこのひと

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 小屋に入って僕が見たのは、赤い花畑のような世界でした。  真っ赤に染まった小部屋。その真ん中で、スポットライトのような豆電球の光を浴びながら、彼女はその白い肌に涙をこぼしていました。  ひとり裸で泣く女の周りをちらちらと埃が舞っており、ただ悲しみのための舞台がそこにはあるばかりでした。 「どうして、着いてきたの」  涙ながらに女は言いました。僕は何と答えるべきか分かりません。  ただ黙り込んでいると、彼女はその肌を爪で()き始めました。  よく見ると、彼女の爪は真っ赤に染まっているのでした。 「私は……、私が、人魚なの」  気が付くと僕は、彼女に向かってゆっくりと歩いていました。静かに、導かれるように。 「いえ……、やっぱり違うわ。私はまだ、人魚じゃない。でも、人間でもない」 「どうして……」  ようやく僕は、その赤い景色がどうやって出来上がったのかを知りました。  足元、靴で踏んだものがぱきりと音を立てたからです。  目をやると、そこにあったのは大量の鱗です。彼女の血で染まった、真っ赤な鱗……。肉や皮の欠片が付いたものもありました。  彼女が必死に爪で掻いているのは、自身の体に生えてきた鱗だったのです。その一枚一枚を、彼女は千切ったり、削ったり、剥がしたり……、とにかくそんなことを繰り返していたようでした。 「もうきっと、戻れないの。私は人魚になってしまう」  そう言って彼女は振り向きました。僕は、唖然としました。  乳房の下から太ももの半ばまで、彼女の体は虹色の鱗に覆われていたのです。その美しさは僕を捉えて離しませんでした。  今すぐにでも、付着した血を拭って、完璧にしたい……。そんな気持ちが内側から衝動のように湧き上がるほどでした。  僕は、心配よりも先に美しさに対するある種の敬意を覚えたのです。 「……これを」  彼女が手を差し出しました。その手に握られていたのは、鱗でした。 「これは、切符なの。片道分の切符。いつか、貴方が穢れを許せなくなった時、その切符の意味が分かるはず。だから、取っておいて……」  僕は、それを受け取りました。そしてそれから彼女は再び泣き始めました。彼女が何を思って泣いたのか、それは分かりません。しかしその声の、歌の美しさは今でも耳の奥に残っています。  そして、もはや役割を終えた僕はその舞台を去りました。僕は……、彼女の悲しみの断片を残すために歌を歌うようになったのです。
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