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最近、雪乃は毎晩のように同じ夢を見る。
夢の中の雪乃には夢の中だけで会う現実には存在しない架空の恋人がいる。
血のように鮮やかな紅い髪。目と眉の間隔が狭く、彫りが深い端正な顔。アーモンド型の曲線を描いた切れ長の瞳。気紛れな猫を思わせる微笑みを湛えた薄い唇。
彼は雪乃を「ユキちゃん」と呼ぶ。その声がヤンチャな見た目に似合わず、思いの外優しく甘い声なので雪乃はいつも戸惑ってしまう。
派手なスカジャンに細身のクラッシュダメージジーンズをルーズに着こなし、足元はジョージコックスの白と黒のラバーソール。
耳にはおびただしい厳ついボディピアスが貫通したりぶら下がったり突き刺さっていて、見ているだけで痛々しい。
アウターコンク、アッパーダイス、アンチトラガス、インダストリアル、コンク、スナッグ、ダイス、トラガス、ヘリックス。
キャプティブビーズピアス、ストレートバーベル、インダストリアル、ラブレットスタッド、トンネル、スクランパー。
20G、18G、16G、14G、12G、10G。
ピアスをあける部位にも名前があり、ピアスも形状や役割によって名前が違い、少しずつピアスホールを拡張する事も出来るのだという事を雪乃はサツマから教わった。
サツマというのは雪乃の夢の中の恋人の名前だ。
「ねぇユキちゃん、いつものホテルでいい?」
サツマはとても背が高いので歩きながら雪乃と話す時はいつも長い身体を斜めに傾けて雪乃の肩を抱き、耳元で内緒話をするように囁いてくる。
そうでもしないと背が低い雪乃は雑踏の中でサツマの声を聞き取れないのだ。
サツマの身長が何cmあるのか聞いた事は無いけれど、雪乃の身近な男性で一番背の高い希死田よりもほんの少しだけ高い気がした。尤も希死田は長身痩躯とは言っても酷い猫背だから、サツマの方が随分背が高く見える。
サツマは夢の中だけで会う現実には存在しない架空の恋人なので、雪乃はサツマの事をあまりよく知らないし、当然馴れ初めなんてものも思い当たらない。
しかしサツマの態度や口振りから察するに、雪乃とサツマはそれなりに長い付き合いで、雪乃は随分サツマに気を許しているらしい。
雪乃とサツマのデートはいつも見覚えのない土地勘がある謎の場所で待ち合わせて即、ラブホテルに直行だ。
現実で恋人にそんな仕打ちをされたら雪乃は絶対に許さないし、そんな男とはさっさと別れる。
しかし夢の中の雪乃は、不思議とサツマに腹を立てたり拒む気にはなれないのだ。
「ユキちゃん、部屋何処がいい?」
ラブホテルのフロントのタッチパネルの前で雪乃は思い直す。気を許している、という表現は適切では無いのかもしれない。
「……どれでも、良いよ。サツマくんの好きな部屋で」
雪乃はサツマに逆らえない。
サツマが怖いのでは無い。
逆らう理由がないのだ。
サツマといる時の雪乃はまるで自分の意思のない人形のように自分で決める事をまるっきり放棄している。
サツマはいつも雪乃にどうしたいか、まず希望を聞いてくれるし、無理強いだって絶対にしない。
しかし、雪乃はいつも自らサツマに決定権を委ねてしまう。
雪乃はサツマに甘えているのだ。
人の言いなりになるのは楽ちんだ。
上手くいってもいかなくても、自分のせいじゃない気がする。
そしてサツマはいつも決して雪乃に嫌な思いをさせたりしない。
雪乃が心の奥底で望んでいたものを、喜ぶものをいつも魔法のように差し出してくれる。
殺間はいつも赤と黒を基調にした同じ部屋を選ぶ。
真っ赤な光沢のある安っぽいシーツの上でそれが自然の摂理であるかのように、雪乃はサツマに抱かれる。
大して経験があるわけではないので比較対象は少ないけれど、サツマは多分恐らくセックスが物凄く上手い。
セックスが上手いというのは自分だけが気持ち良くなって勝手に射精するような独り善がりなセックスをしない、という意味だ。
キスも前戯も丁寧で、AVでエンタメ用のセックスを誤学習した馬鹿な男みたいに指をガシガシ無駄に強く速く動かしたりしない。
ワイルドな見た目とは裏腹にサツマの指はとても繊細な仕事をする。
雪乃は過ぎた快楽に為す術なく、盛りのついた雌猫みたいに媚びて甘えた声をあげる。
「ユキちゃん可愛い」
サツマはいつも、雪乃が若気の至りでカッターナイフで刻んだ太腿の正の字を二股に分かれた蛇のような舌で執拗に愛撫した。
その仕草は行為の最中には不似合いなほど妙に献身的で、母猫が仔猫を舐める仕草にも似ていた。
「サツマくん、どうしていつも、そこばっかり……」
「だってこれはユキちゃんが一生懸命生きようって頑張った証でしょ?良い子良い子してやんなきゃ」
醜い傷痕は全部で七本。どうして切ったのか、何がそんなに辛かったのか、今はもう覚えていない。
「ユキちゃん、今までよく頑張ったね。ずっと寂しくて苦しくてひとりぼっちで辛かったでしょ。でももう大丈夫、オレがいるよ」
雪乃は子供の頃から漠然と、自分には何処にも居場所が無いと感じていた。家も学校も雪乃にとっての安全基地とは言えなかった。
家ではベランダに頬杖をついて、学校では教室の窓の手すりにもたれながら、いつも空ばかり見ていた。
ここから鳥のように自由に飛んで行きたいという子供じみた空想が、ここから飛び降りたらどうなるだろうに変わるまでそう時間はかからなかった。
地面に叩き付けられ無惨に潰れて捻じれた自らの姿を夢想して、太腿に死にたいと思った数だけ正の字を刻んで、雪乃はいつしか大人になった。
鳥のように自由に飛んで行きたい。
消えてしまいたい。
死にたい。
それでも雪乃は死ななかった。
衝動的に死を選ぶ事も出来ず、惰性で自堕落な生にしがみついてここまで来た。
朝起きて、身支度をして、働いて、食べて、眠る。
その繰り返し。
生きることは思考を放棄さえしてしまえば、うんざりするほどオートマティックだ。
「ねぇユキちゃん、まだ死にたい?」
サツマは人懐っこい笑みを浮かべ、雪乃の首に手をかけると、絶妙な力加減で気道を圧迫した。
行為の最中、サツマはいつも雪乃の首を絞める。
でも雪乃は頸動脈を圧迫するような絞め方は決してしない。
「ねぇ、雪乃ちゃん、死にたい?」
だから雪乃は簡単に死んだり、意識を失わせては貰えない。
ギラギラした獣のようなサツマの視線に射抜かれながら酸欠と息苦しさに悶え苦しむ。
「ユキちゃんが望むなら、オレがユキちゃんを殺してあげるよ」
甘く蕩けるような声が鼓膜を震わせ、雪乃はさざ波のように全身に鳥肌が立っていくのを感じた。
視界が霞む。意識が遠のく。全身の震えが止まらなくて、いよいよ雪乃は恐ろしくなる。
雪乃はシルバーリングが沢山嵌められたサツマの指に縋るように手を重ねた。
あぁ、もうすぐだ。もう時期雪乃は目を覚ます。
サツマはいつも雪乃を殺してくれない。
代わりに雪乃は目を覚まし、現実に戻る。サツマのいない現実に。
「希死田によろしくね」
意識が浮上する寸前に、遠くで微かにそう聞こえた気がした。
「……雪乃さん、そろそろ起きないと遅刻しますよ」
不愉快なスマホのアラームを脊髄反射で止め、夢の余韻に浸りながらぼんやりと天井を眺めていると、希死田が相変わらずの陰気な顔で雪乃の顔を覗き込んで来た。
「うわ、希死田さん」
「うわってなんですか?傷付きます」
「寝起きで希死田さんの顔見ると遂に死んだかなって思うんですよ」
「爽やかな容貌では無いのは自覚してますが雪乃さんはまだ生きてますので安心してください」
生きている。私はまだ、生きている。その事を少し残念に思っているのは何故だろう。
「……さんッ、果歩さん!大丈夫ですか!?」
希死田に気遣わしげに何度も何度も名前を呼ばれ、私は漸く我に返った。
「……サツマくん」
虚ろな目をしたまま雪乃がぽつりと小さく呟くと、希死田は「その名を、誰から聞いたんですか?!」と充血した三白眼気味の瞳を大きく見開き、雪乃の両肩を掴んで激しく揺さぶって詰問した。
「……夢、の中で、会った人です」
「殺間にッ!殺間に会ったんですか?!どうしてもっと早く俺に話してくれなかったんです!」
「サツマ?」
サツマ、さつま、殺間。
確か以前、希死田が話してくれた自分より遥かに危険な存在であるという自殺念慮の化身がそんな名前だった気がする。
命を直接脅かす、非常に獰猛で、凶暴な存在。それは雪乃の知る隼人とは上手く結びつかなかった。だって彼は、いつだって雪乃に優しい。
「……えっと、多分、私が会ったのは殺間さんとは違います。だって彼はいつも優しいです。希死田さんとは少し違うけど、でも、優しいです」
雪乃が夢見心地のふわふわとした口調でそう言うと、希死田は「……自殺念慮の殺間は、そうやって人間を死へと誘うんです」と、元々血色の悪い顔を真っ青にして血を吐くような掠れた声で雪乃に宣告した。
「雪乃さんは、殺間と出会ってしまった」
「……サツマくんが、自殺念慮の殺間?」
どうやら、雪乃の夢の中の架空の恋人は自殺念慮の殺間だったらしい。
言われてみれば思い当たる事ばかりだ。むしろどうして今まで気付かなかったのだろう。あれほど希死田に夢の中に殺間が出てきたら要注意だと言われていたのにとんだ間抜けだ。
これから私は、どうなってしまうのだろう。
もうとっくに家を出ていなくてはいけない時間なのに身体に全く力が入らず、ベッドから起き上がる事すら出来ない。真っ当な社会人として最後の力を振り絞り、せめて今日は休みますと会社に電話しないといけない。
しかし、それよりも何よりも雪乃には気になる事があった。
「希死田さん」
「……はい」
「希死田さんってトモダチなんですか?」
私が生気のない顔に笑みのようなものを浮かべながら無邪気にそう尋ねると、希死田は骨張った大きな手で顔を覆って溜め息を吐いてがっくりと項垂れた。
「……親戚のようなものです。でも俺は、あいつが大嫌いです。雪乃さんを殺間に渡したくない」
「ふふっ、なんだか口説かれてるみたい」
「笑い事じゃないです」
雪乃が寝転がったままスマホの通話履歴から会社の名前を探しながら「そういえば、サツマくんか希死田によろしくって言ってましたよ」と伝えると、希死田の眉間に深い皺が寄り、雪乃はそれを見ないふりをして通話ボタンを押した。
今月の有給はもうこれで最後だ。
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