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【短編】唇からメロディ
彼はいつも六畳間の真ん中にいる。
住居である安アパートの部屋には物がない。あるのはせんべい布団にアコースティックギター。楽譜に脱ぎ散らかした古着。
脱皮したように脱ぎ捨てられた服を足でどけると、パンツとTシャツというだらけた格好の彼は布団の上に胡坐をかいていた。茶色いギターを抱えて、チューナーの表示に合わせてペグを回しチューニングをしている。
チューニングを終えると彼は一度少しだけ尻を浮かせてまた座った。首を回して、さらに指の骨を鳴らした。骨の振動を感じたまま彼は左手をネックに伸ばすと、コードを押さえて、何かの曲を弾きながら歌い始める。
ギターを弾く彼が住むアパートの、真向かいに建つマンションの一室から、音無という青年が、それをただ見て聴いていた。ギターの青年の唇からメロディが漏れる場面を見ることが、音無は何より好きだった。
見ている、という表現は正しいが、正しい行動とは言えない。音無は自室の窓にかけたレースカーテンの隙間に双眼鏡を差し込み、彼の部屋を盗み見ていた。それが音無という男の唯一の趣味と言っても過言ではなかった。
音無はギターの彼の苗字を知らないが下の名前が【シンヤ】であることは知っている。彼の部屋に遊びに来た女の子が彼のことをシンヤと呼んだからだ。
シンヤ、コンセント使っていい?と女の子が断ってからスマホの充電を始めたので、音無は彼の名前を知ることができた。
左手でネックを押さえピックで弦を弾くと、シンヤは自然とメロディを口ずさむ。
音無は彼の唇さえ見ればその曲が「愛の歌」であることがすぐわかった。朗らかでありながら緊張しているような眼差しに、何度も書き直したあとのある譜面。本気の想いであることが双眼鏡のレンズ越しでも切ないほどに伝わってくる。
綺麗なものを見た瞬間
君に会いたいと思った
隣にいてくれる君こそが愛おしい
オリジナルソングであるそれは、きっとスマホを充電していた女の子への曲だろう。あの女の子はきっと彼女か、親密な関係にある女友達だ。シンヤは弾き語りしながら気に入らない部分があると譜面にメモしたコードを塗りつぶし、もっとふさわしい音を探す作業をひたすら繰り返した。
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