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文化祭での吹奏楽部の発表も、見に行ったことはなかった。自分のクラスの出し物のシフトが重なることが多くて、遠くから聞こえてくるその音を非日常のBGMにしていた。
自分たちの練習中や引退後の下校時に、吹奏楽部の練習の音を耳にした。野球の応援として観客席から叫ばれるように高鳴った音を、ベンチで追い風として受けた。
でもやっぱり、演奏している姿をこんなに近くで見に行くことは一度も無かった。
打楽器の音が、観客をリズムに乗せる。
管楽器の音が、流れる音に何通りもの色を付けていく。
絡まって、広がって、高鳴って。私たちの耳に滑りこんでくる。
けれど音よりも私が心を奪われたのは、演奏している吹奏楽部のひとたちの『姿』だった。
いま彼らが演奏しているのはポップな曲だ。テレビの音楽番組やニュースでも取り上げられるような、いわゆる「流行り」の、大多数のひとが一度は耳にしたことのあるようなそんな曲だ。聞いていて楽しくなる曲で、観客も、お姉ちゃんも楽しそうに体を揺らしたりしている。
そんな彼らと一緒に楽しむように、吹奏楽部のひとたちも、みんな楽しそうに体を揺らしながら演奏をしていた。
久住くんも、同様だった。あの楽器は確か、ホルン、だったっけ。くるっとまあるく巻かれた管楽器を構えて、吹き鳴らしながらゆらゆらと楽しそうに体がゆれている。
勿論、久住くんとカラオケになんて行ったことは私にはない。
それでも、音楽に合わせて演奏する久住くんは、頭の先からつま先の先まで、久住佑馬という存在と、彼を成す細胞の細やかな一粒まで、余すことなく全身で歌っているみたいだった。
パーカッションの男の子が、両手をあげて手拍子を促す。それらに釣られるようにして、観客も、お姉ちゃんも、手拍子を打ち鳴らす。いつのまにか、吹奏楽部だけではなくて、会場全体が身体を使って歌っていた。
私はそれを、呆然と眺めている。
「凛!」
演奏のなかで、楽しそうなお姉ちゃんが私の耳元に顔を寄せて囁いた。
「こういうのはね、楽しんだもの勝ちだよ!」
やがて、ソロパートに入る。フルートの女の子が前に出て、私には何小節あるのかわからない長さで、それでも観客を魅了していく。
吹き終えて、彼女が一礼した。それに、称賛の拍手が沸き上がる。そういう文化をひとつ知る。きっと今日ここにお姉ちゃんと立ち寄らなかったら、知らなかったひとつだ。
クラリネット。サックス。たしか、そんな名前。それらが同じようにソロパートを成し遂げて、暖かな拍手を浴びて元の席に戻っていく。それらを見送りながら、私はいつの間にか姉の背中から足を踏み出していた。両手はかたく、私の胸の前で握りしめられている。打楽器の音、管楽器の音、クラップ、全部がひとつの音になって、会場全体を覆っている。
どきどきする。
やがて、久住君の番が来た。
立ち上がって、最前列に設置されたスタンドマイクの前に久住くんが立った。
背筋を伸ばし、静かに息を吸って、久住くんのソロパートが始まる。
『そのイベント。俺、ソロで吹くことになったんだ』
裏切られたと思った。
あの僅かな時間を、関係を、大切にしていたのは自分だけだったのかと私は思ったのだ。身勝手にも。
帰りの時間は同じでも、夏の大会を最後に引退する私たち野球部と違って、うちの学校の吹奏楽部は、秋頃まで三年生も部活動をやるらしい。私たちの甲子園になるような演奏会だか何かがあるらしいと聞いたけれど、実際はわからない。
だから、夏を最後に私が、終電を使うことはなくなった。当然、秋まで終電を使う久住くんと話すこともなくなった。
それでいいと思っていた。
『……良かったら、成瀬に、みにきてほしい』
踏み込まないで、ほしかった。
一歩でも彼の内側に踏み込んだら、私も曝け出さなければいけなくなる。
このひとには嫌われたくないなと、理由もなく漠然と思った。
だから、好きとか嫌いとかが生じない場所で、シュークリームとかマカロンとかプリンとか、表面だけの甘い会話がしたかった。
君にだけ怖がりだった、私の自分本位なワガママだ。
気付いたら、私は。
私の両手は、称賛を送るために音を打ち鳴らしていた。
ソロパートを見事に吹き終えて、頭を下げていた久住くんが顔をあげる。その瞬間、私と久住くんの目がぱちりとあう。
久住くんは驚いたように目を丸くすると、ものすごく嬉しそうに笑った。
久しぶりにみた、久住くんの笑顔だった。
弾む足取りで、久住くんは元の席へと戻っていく。それを目で追いながら、私は、拍手をする手をゆるやかにほどいて、力なく笑った。
「……私の負けかあ」
勇気を出して、境界線を踏み越えてきた君の勝ちです、久住くん。
成瀬凛は、君への敗北を認めましょう。ええ、認めますとも。
きっと私と君は、今日から本当の意味で、友達になろうと会話をするんだ。
お互いを知るための、対話をするんだ。
久住くんが大多数の演奏の整列に交じって、再びホルンで歌いだす。
私は私の知らない久住くんを目に焼き付けるように、彼が身体を揺らしながら、音を奏でる姿を眺め続ける。
知らず知らず、私の身体も音で揺れて、手拍子で混ざって、会場と一緒に全身で歌っている。
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