怪獣よ、ピアノで歌え

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「キミが峠くんだな!」  声をかけられた一年は、大柄な相手をギロリと睨んだ。 「合唱界の神童と言われながら、声変わりした途端に見捨てられて引退した峠コウd…だっ‼︎」  お喋りは、右パンチで中断された。 「部長、それはない!」 「右に同じ!」 「それでホントに勧誘する気だったのか⁈」 「オレはいつでも本気だ!」  音楽室の片隅で。楽譜の入ったカラーボックスとアップライトピアノだけの小さな部屋に、高校生が四人。ソプラノ紫野、アルト標野、テナー茜田部長、バス野守。これが、いまの葉一高校合唱部フルメンバーだ。  音楽室は吹奏楽部が使っている。今も練習中で、古い建物のせいで防音が甘い。合唱部の皆は自然と声を大きくした。ただし部長だけは、生来の大声である。 「引退したとはいえ神童、入部してくれれば心強い!」 「だーかーらー、ワケアリ引退した人を勧誘するなら、もっと繊細にいこうよ!」 「だから抱えて連れてこないで、説得をしている!」  三人はため息をついた。葉一の怪獣とあだ名される所以である。  声変わりを受け入れられなかった。自分も、母も。  無理をして喉がつぶれた。今のダミ声では普段の会話すらしんどい。  自分の声がもう駄目だ、とわかったら、チヤホヤしていた人達は一斉に離れた。そこには母も含まれていた。ある日、学校から帰ると母は姿を消していた。  喉が治るまで、と伴奏を担当したこともある。ピアノ講師の父から教わっていたから弾けはしたが、歌えない苦しみが増すばかりだった。部員も教師も、腫れ物に触るように扱ってくる。イライラがつのった。  ピアノも、音楽の授業も、喋ることすら嫌になって、知り合いもいない、合唱が盛んではない高校に入学した。  …なのに、コイツはなんだ⁈  昨日思わず殴ってしまい(叱られた)でももう近寄らないだろうと思ったのに、何事もなかったように近寄ってくる、声も身体も態度も大きな男。 「峠耕(とうげ・こう)くんだな?」  男は中断したところから会話を再開した。最大級の睨みをきかせても動じない。 「オレは合唱部長の茜田王毅。合唱部に入らないか?」 「…こんな声で、歌えると思うか?」 「知らん!」  二度目のパンチが炸裂した。  恐ろしいことに、茜田部長はまた声をかけてきた。なんだコイツ。 「知らんが、歌うだけが合唱部ではない!」  何事もなかったように会話を続けてくる。峠が三度目のパンチの準備をしたところ。 「キミはピアノも弾ける。伴奏をお願いしたい!」 「⁈」  驚いた。なぜ知ってる? 「今、合唱部は四人しかいない。アカペラはもう飽きた。伴奏付きで歌いたい!」 「……知るか」  背を向けると、部長の声が追いかけてきた。 「歌が嫌いなら、もう勧誘はやめる。でも好きなら入部して伴奏してほしい! 音楽室横のピアノ室が部室だ!」  誰が行くものか。  今でもうなされる。あの輝かしい日々と、全てをなくした今を突きつけられて。  歌声、笑顔、拍手、スポットライト、母さん。  夢の中で耕は歌えない。獣が吠えるような声しか出せないのだ。  その日の夜、夢の観客の中に、あのうっとおしい大男もいた。大男は耕に、叫ぶ。 「歌が、好きなら!」  そんなこと、聞かれなくても。 「おっ!」  吹奏楽部の演奏が途切れた時に合わせ、ピアノ室のドアが開いた。峠だ。 「……弾くのは、久しぶりだ。聞いて、使えるかどうか判断してほしい」 「なんだって?」  吹奏楽部の練習が始まり、峠のダミ声は吹き飛んだ。ピアノを指差し、もう一度言ってみる。 「弾くから」 「よく分からん、弾くなら弾け!」  部長の言葉に、ピアノの前に座る。弾くのは、シャレで覚えた、苗字と同じタイトルの合唱曲。峠をのぼる景色と心。  四人は曲を知ってたらしい。軽快な前奏のあと、普通に歌い出した。  黒いピアノに、窓の外の明るい空、そして部員たちが楽しげに歌う姿が映る。かつては、自分もあの中にいたはずの。  指に、腕に、力がこもる。 『忘れられるか…!』  だが、最後まで弾いた。今は、それしか出来なかった。  歌が終わると、四人は峠に拍手をした。  拍手をもらったのは、いつ以来だろう。
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