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3.十路迷子-3
とん、と肩を叩かれる。
ハッと戸草は我に帰る。
「名護さん……」
「なにか見えたんですね」
また心象風景を見ていたらしい。
どれくらい時間が経ったのか喉がからからに乾いていた。
「それでどうだったんですか?」
「白い老人の姿をした……、おそらくマガモノが立っていて目があいそうになりました。噂でいう子どもを攫ったという怪物かもしれません」
ふむ、と名護は手を顎に当てる。
「それにしては釣れなかったようですね。君の血に寄ってこないとは」
たしかに姿は見えない。
「聞いていた話通りですね」
感心したように津山は言う。
「というと?」
「私は怪物、マガモノが白い老人の姿であることは伏せてお話しました」
「成程」
名護が目を細める。
「最初から試してかかったと。随分信用がありませんね」
「ちょっと名護さん……」
「仕事を合同で行うために信頼が必要なのだというなら申し訳ありません。能力を知る上では必要なことだったので」
悪びれなく津山は言う。
また必要か。
戸草はそう思って、一つの考えに至った。
これは本当に怪異事件の捜査、それだけの名目なのか?
戸草と名護は通常の人とは違いマガモノに近い特性を持っている。
人には視えないものが視え、戸草に至っては名護の血がなくては満足に生きてもいられない。
そんな自分たちの監視にきたのではないか。
まさか、と自分の考えを振り振り払おうとして蕗島の言葉を思い出す。
「津山から目を離すなよ」
名護をよろしく頼む。
こういうことか、と思った。
蕗島はこの展開を見越していたのかもしれない。
「血は怪異の進路でしょうか」
津山は白線を追う。
「ここで途切れていますね」
津山が指さした白線が途切れた位置でちょうど血の跡は止まっていた。
「ここは辻道になっていますね」
名護が言う。
たしかに道が十字に交わっている場所に自分たちは立っている。
「辻は古くから現世と異界が交わる場と言われています。そして、辻神という怪異が現れる場所だとも。辻神というのは神という名がついていますが神ではなく、禍を起こすものとされています」
「辻神、ですか」
それがあの老人の姿をしたものの正体なのか。
「いちごをやろうか、というそうです」
「は?」
津山が言った言葉の意味がわからず戸草は首を傾げる。
「あの怪異は出会った大人にはいちごをやろうか、と声をかけるらしいです。反対に子どもには何かをよこせと言ってくるだとか。そんな話が広まっているんですよ」
「いちご、ですか。果物の苺でしょうか」
戸草は言葉の響きからそう感じるが全く意味がわからない。
「それって、もしかして蕗島さんの生き霊とかじゃ……」
ここ最近の日常から連想したほんの冗談のつもりで戸草は言ったが、二人ぶんの冷めた視線を感じた。
「すみません冗談です」
「冗談を言う余裕があるんですね」
真顔で名護が言う。
あ、これは怒っているなと思った。
「戸草さんはもう一ブロック確認続行で」
「はい……」
笑顔の津山の指示を素直にきくことにした。
住宅街をしばらく歩いてみたが特に進展はなかった。
「今日は何もないようなのでいったん捜査を切り上げることにしましょうか。戸草さんもお疲れでしょうし」
「え?自分はまだ大丈夫ですが……」
「でも、血を使うのはやはり消耗するんですよね?」
津山の気づかうような視線に戸草は複雑な気持ちになる。
もちろん簡単でも楽でもないわけだが、人に気をつかわれることには慣れていない。
普通の人間にはもちろん極秘であり、上司である蕗島には負担をかけたくないので特に何も言わない。体質のことを共有している名護とは仕事と割り切って互いに必要以上に気を使わないという暗黙の了解がある。
そんなことをしていてもきりがないからだ。
名護自身気づかいというものが皆無だというのもあるが。
「お気づかいありがとうございます。でも、本当に大丈夫なので」
とりあえず礼を言っておく。
「もう一ブロック確認してから戻りますので、お先にどうぞ」
「では、私は先に車に戻っています。あなたも戻りますか?」
ちらりと名護に目をやる。
「いえ。私も戸草くんに付き添うのでお構いなく」
いつもの顔だけの笑顔で手を振り名護は津山の申し出をやんわりと断った。
「そうですか。お待ちしていますね」
そう言って津山は背を向けて車のほうに戻って行った。
戸草が歩き出すと背後から名護が冷たい声で言った。
「誰かれ構わず尻尾を振るのはやめたほうがいいんじゃないですか?」
「は?」
言っている意味がよくわからない。
戸草が振り返ると無表情で名護は言葉を続ける。
「彼女はマガモノのことも君の体質のことも知っていた。だから、先日のマガモノの欠片との接触は彼女が故意に行った可能性が高いと思われます」
名護は何の感情も浮かんでいない顔で当たり前の事実を告げるように話す。
「瓶を落としたのは計画の上で君が触れるように誘導したのでしょう」
戸草は津山が手渡してきた小瓶を思い出した。
割れた破片を触ったあの時の感覚がまだ消えない。
「でもそれは憶測じゃ……」
そう言う自分が一番その言葉を信じていないのがわかった。
勘違いじゃないとするなら、そこに見えるのは悪意だ。
不意に強く手首を掴まれた。
正面に名護が立っている。
闇のように黒い瞳と目があう。
「君は事件に集中して私の言うことだけ聞いていればいい」
いつもと同じ平坦な声だが、感情が見え隠れしているような気がした。
苛立っている?
「どうしたんですか」
名護は黙らせるように掴んでいたのと反対の手首を戸草の口に押しつけた。
いつの間に切ったのか手首には血が滴っている。
「忠告はしましたからね」
そう言って名護は背を向けた。
傷ついた自分の手にも呆然とする戸草にも構うことなく遠ざかっていく。
戸草は口元についた血を拭う。
「なんなんだ……」
そう呟くことしかできなかった。
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