3.十路迷子-6

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3.十路迷子-6

 カーテンの隙間から月明かりが漏れている。  特務課に着くと例によってと言うべきか名護(なご)は長椅子で寝ている。  安らかな寝顔を見て起こすのは忍びないなと思った。  トマトスープを机に置くと予想外に大きな音が出てしまった。  しまった、と思ったときには名護は薄く目を開けていた。 「すみません、起こしてしまいましたか?」 「いえ、もう起きる時間だったのでちょうどいいです」  珍しく小さく欠伸(あくび)をしている。 「起きる時間ってもう夜ですが」 「書類整理が終わっていないので。仮眠をとっていただけです」  長椅子から起き上がると戸草(とぐさ)に向き合う。 「戸草くんはどうしてここにいるんですか?」 「あの、これよかったらどうぞ」  そう言ってトマトスープを差し出す。  受け取るとしばらく見てから名護は言った。 「どうしたんですか?」 「もらったので。名護さんどうせ食事とってないですよね」  拒食とまではいかないが名護は一人だと食事を抜くことが多い。本人曰く面倒くさいらしいが貧血で倒れられでもしたら困る。 「誰にもらったんですか?」 「古い友人です」  わらしべ交換のことは省いて言う。 「そうですか」  名護はたいして興味がなさそうな様子で、缶を手で(もてあそ)んでから言う。 「もらいます。ありがとうございます」  今日は素直にお礼を言ったなと思う。  「あの、ところで」  戸草は言う。 「新しい情報がみつかりました。事件に直接繋がるかはわかりませんが無関係ではないと思われます」 「それはどんな?」 「捜査を行った場所に近いアパートの住民が怪しげな儀式をしているそうです。そして、そのアパートから子どもが現在三人失踪しています」 「怪しげな儀式、ですか」 「詳細はよくわからなかったので明日アパートに行って聞きこみをしてこようと思います」 「その情報は誰からのものなんですか?」  藤原は特に事件に関係していない一般人なので情報源としてはなんと言おうか悩むと、ぼそりと名護が言った。 「詳細を知らないということは直接聞いたわけではないということですよね。……また広報課の人間ですか」 「違います」  つい強い口調で言い返していた。 「なんでそこにばかりこだわるんですか」  ちらりと名護は戸草を見やる。  切るような視線だ。顔が整っているだけに不機嫌そうだと迫力が増す。 「本当に違う?」 「しつこいですよ」  やましいことは何もないのでため息混じりに戸草は言った。  「なら、いいのですが」  ちらりと名護は戸草を見やる。  またしても何の感情も浮かんでない顔だ。船橋陽彦の仕事の件からもまだ時間が経っていないので疲れているのだろうか。 「お腹は空きましたか、戸草くん」   薄笑いで名護は言った。 「何も食べてきていませんので、まあ」  困惑しながら言うと名護は蠱惑的な目で戸草を見た。 「そういう意味じゃない、ということはわかってますよね」  ぐっと戸草は息をつまらせる。 「こっちに来てください」  そう言うので警戒しながらも近寄る。  腕を差し出すのでまた血を舐めることになるのかと姿勢を下げると頭の上に手を乗せられた。 「おあずけです」 「え」  戸草が目を瞬いて困惑していると名護が言った。 「私が自分から血を分け与えることはしないので襲ってみてください」 「……なんのために?」 「訓練ということにしておきましょうか。獣だって食事は自分から取ってくるものでしょう?」  カッと頭が熱くなった。  「……ふざけているんですか?」  「いいえ?」  笑顔を貼り付けたまま名護は言う。 「失礼します」  仕方ない、と思うと戸草は名護の両手首を掴み長椅子に寝転がさせた。  名護を部屋に入ってきたときと同じ横になった体勢にする。 「おやおや」  唇を引き上げて笑う。 「戸草くんにこんな趣味があったとは」 「いい加減怒りますよ」 「もう怒っているくせに」  楽しげな声で言う。 「ほら、どうぞ」    掴まれたままの片手で首筋を示す。名護に近寄るとくらくらと目眩にも似た感覚がある。  たしかに腹は減っている。でも。  戸草はぐっと唇を引き結んだ。 「やっぱりできません」 「なぜ?」 「名護さんの同意も得てないのに無理矢理するのは、できません」  ぱちくりと名護は目を瞬かせる。  それから呆れたような顔をした。 「自分の意思で食欲をねじふせられると?」 「……できれば」 「無理ですね」  名護は戸草の足を払うと体勢を逆にして戸草を組み敷いた。   細いのに意外と力がある。  いや、今のは合気道の要領で自分にかかっていた力の流れをそらしただけかもしれないと戸草は冷静に考える。  名護は右手を戸草の拘束からはずすとシャツの胸ポケットから刃が短いナイフを器用に取り出す。  いつもそんなものを持ち歩いているのか。  自ら左手の手首を切ると血が滴った。 「これでもまだ同じことが言えますか?」  じわりと戸草の服の袖にも血が垂れてきた。  クソ、と思う。  名護の血のにおいを嗅ぐとすぐに酔ったようになってしまう。  視界がぐらぐら揺れて意識が遠のく。  人としての意識が。頭を振るが限界が近かった。  抗えない。 「降参ですか?」  クスリと名護が笑う。 「……飲んでいいですよ」   そう言われた途端、ぐいと手首を引っ張ると名護の手首を口に含んだ。  罪悪感がこみ上げてくる。  名護が戸草の頭の横に顔を下ろした。  秘密話でもするかのように耳元に口を寄せる。  耳朶に息がかかった。 「うそつき」  ぞくり、と背筋に寒気が走る。  名護は顔を上げると憐れむように冷笑して戸草を見下ろした。  そっと手首を戻すと血はもう乾いていた。 「……自分からは血を与えないんじゃなかったんですか」  名護は何も言わずに微笑んでいる。鬱憤晴らしに駆け引きを持ち出したのだろうが戸草としては笑えない。  ぽつりと名護は言った。 「私は嘘つきなんです」  全く悪びれてないな、と思った。
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