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1.落花地点-2
翌日。
戸草は自分のデスクで事件ーー、この現象の資料に目を通し始めた。
昨日の途中退出の埋め合わせをするためだ。
その奇妙で陰惨な内容に眉を寄せる。
不可思議な事件のあらましがそこには記されている。
歩道に突如花が積もり、そこにビルの屋上から人が落下する。それに気づいた通行人は戦慄するが、気付けばそこには何もない。
幻の人影が何度も自殺を繰り返す。
それが今街で起こっている現象の概要だった。
しばらく資料に集中していた戸草は部屋のドアが開く軋んだ音にやっと我に帰る。
足音も立てずに寄ってくるのはやめてほしい。気づくとデスクの脇に名護が立っていた。
名護は静かな口調で言う。
「事件の内容は頭に入りましたか」
「ええ、大体は。……昨日はすみませんでした」
「いいんですよ。いつものことですから。今日のぶんをいただきますか」
名護がシャツの袖をまくって手首を見せる。
青い静脈が走るそれにゴクリと喉を鳴らす。
「……やめてください、ここでは」
「それは失礼しました」
そう名護が言い、部屋から出て行く。
感情が揺らぎ、戸草は深く呼吸する。
波立った心の内が鎮まっていくように。
「何してるんですか?」
戸草が資料を片付けようとすると、名護が廊下から戻ってきてヒョイと戸から半身をのぞかせた。
それだけ見ると妙にコミカルな動きのようだ。
「は?」
「はじゃなくて……。あなたも当然行かなければならないでしょう」
首を傾げた戸草に、名護は呆れたように言う。
「現場百遍です。現象の起こった場所に行きますよ」
曇った空の下にビルが建っている。
真昼の街中、特に住宅地であるこの辺りは年寄りが歩いてくる以外はほとんど人気がない。
目の前に立つビルは特になんの変哲もなさそうな建物だ。
本当にこんなところから人が降ってくるのが見えるのか。
悪趣味だとはわかっている。
わかっていてもビルの屋上あたりを見上げずにはいられない。
「何も見えませんね」
名護は残念そうに言った。
「ええ」
戸草はうなずいて、捜査前から思っていた疑問を聞くことにした。
「名護さん、一つ質問なんですが」
「なんですか?」
ビルの方を見上げたまま、名護が応じる。
「この現象で誰か困るんですか?怖がって子供が通学できないとかならまだしも、苦情や相談も届いていないみたいですし。はっきり言って個人からの相談で動くほど暇じゃないですよ」
そう、事件は目撃者である通行人から助けを求める声があったわけではなくビルの所有者である人物からなんとなく気味が悪い、風評が悪いから、それだけの理由で相談が寄せられたものなのだ。
戸草は部屋に積もった事務処理待ちの書類の山を思い出してげんなりしながら言う。
また、それは自身がこの件になるべく関わりたくないという悪あがきでしかないかもしれない。
「実害がないなら時間を割いて捜査する必要があるとは思えないんですが」
「怪談が広まれば心霊スポット探訪だ調査だなんだと言って物見遊山にくる不当な輩が増えるかもしれない。犯罪を未然に防ぐことも仕事のうちですよ。……それに」
名護がニヤリと笑った。嫌な笑いだ。この人がこんな笑いをするときは必ず裏に何かあるのだ。
「本物の祟り、とかだったら困るじゃないですか。……それこそ私たちの専門でしょう」
名護が近づいてくる。
戸草は思わず一歩体を後ろに引いた。
「見ないようにしているようだけど、見えるはずだ」
ポン。名護が肩に手を置く。
ドクン。
戸草の中で何かが波打った。血が急に体中を巡り出して視界が揺れる。
ぼやけた虫眼鏡をのぞいていたような風景がいきなり焦点を結んだ。
「カ、ハッ……」
喉が締まって、息が詰まる。
視界が狭まって、それと目があった。
そこにあったのは大量の女の。
顔、顔、顔。
恨めしげなそれが目について離れなかった。
膝から地面に崩れ、動けなくなった戸草はなんとか名護に肩を貸してもらうことで職場まで戻った。
長椅子に倒れこむ。
時期は蒸し暑い季節にさしかかったころ。
職場にはまだ冷房もかかってないのに寒気と震えが止まらない。
「これはアテられちゃいましたかね。大丈夫ですか?」
戸草は額に伸ばされた名護の手首を必死に掴む。天から伸びる蜘蛛の糸にすがる、地獄の亡者のように。
「……戸草くん。離しなさい」
命令されるが、従えない。
それほどまでに飢えていた。
「……喉、渇いた……」
今すぐ、青い静脈が浮き出る手に噛みつきたい。歯を突き立て、撒き散らされた赤黒い液体を浴びるほど飲みたい。
欲望に戸草は抗うが理性が白旗を上げそうだった。
平坦な名護の声が強い苦悩に、終わりを告げる。
「お腹が空いたんでしょう。せっかくあげると言ってた時に強がるからですよ」
名護が小さなペーパーナイフのようなものを取り出し、それで自分の手首を浅く切る。
真っ赤な血があふれ出した。
口に押し付けられるそれに舌を伸ばし、伝い落ちる血を舐めとる。
甘い味が脳を痺れさせる。
堕ちる。
頭が真っ白になった。
どれくらい時間が過ぎただろう。
我に帰ると、冷めた視線でこちらを見る名護と目があった。
「気が済みましたか」
名護は袖のボタンを止める。白い傷跡が見えた。
断片的な記憶が蘇る。
死人のように冷たい手首、赤い血、犬のようにそれをむさぼる自分。
「私は先に帰りますから。今日の業務時間は終わったので、立てるようになったら戸締りと消灯をして帰ってください」
業務的な口調で名護はそう告げる。
外はすでに墨を流したように暗い。
「ああそれと」
名護は振り返り言う。
「あまり我慢しすぎるとそこらへんにいる通行人を襲っちゃいますよ。そうなる前にちゃんとご飯の催促をしてくださいね」
和やかな口調とは裏腹に侮蔑するような視線で名護は戸草を見下した。
「……私に言わせれば、君の我慢なんかなんの意味もないんだ。そろそろ認めたらどうです。自分は化物だって」
ニコリと、名護は笑った。
「日に日に君は、人間である感覚をなくしていくしかないのだから」
クスリ、と笑う声が耳に残る。
「それじゃあお疲れ様です」
名護は今度こそ部屋を出て行った。
静かに戸が閉まる。
「……くそッ」
戸草はスチール製の机を蹴りつける。
そんなことをしても何も変わりはしないとわかっていても。
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