1.落花地点-6

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1.落花地点-6

「戸草くん今日は疲れましたね」  警察署に戻ると時刻は日付をまたごうとしていた。 「立派な過重労働です。超過勤務手当を貰わなければ」  名護はやれやれと首を振る。  ついで戸草が横になっている長椅子の背もたれにしなだれかかった。 「君にも特別手当を支払わなければなりませんね」  袖口のボタンをはずす。  骨のような、むき出しになった植物の茎のような白い手首があらわになる。  そこには無数の傷が痛々しくついている。  精巧な美術品につけられた汚れのように歪だ。  電気をつけず月明かりだけが部屋を満たしていた。  部屋には、名護と戸草の二人きりだ。 「大丈夫。誰も見ていませんよ」  名護は唇を吊り上げる。 「最も君が誰かに見られるのを気にするかですが」 「……お願いします」  静かに戸草は言った。 「今日はやけに大人しいですね」  クッと喉を鳴らす。 「今日のあれを見て少しは殊勝な気分になりましたか」  刃渡りが薄いナイフを取り出すと名護は浅く手首を裂いた。  プツ、と血が滲む。  差し出すと戸草はそれに舌を這わせた。  どろりとした液体が喉を通って頭が熱くなる。  自分が浅ましく思えて、戸草はすぐに口を離した。 「……もう大丈夫です」 「そうですか」  名護がそのままシャツを下ろそうとするのでハンカチを取り出すと傷口にあてた。 「どうも」  淡白にそう言って名護は手首をおさえる。  前髪をかき回すと戸草は部屋を出た。  そのまま、警察署から立ち去る。 翌日。 「おい」  蕗島の言葉に欠伸をしながら名護が長椅子から身を起こす。 「おはようございます」 「おはようございますじゃねえ出勤時間だぞ。またそこで一晩中寝てたのかお前」  少し引いた声で蕗島が言う。 「ええ、まあ。ちょっと洗面所に行ってきます」 「そうしろ」  扉を開いた名護と入れ替わりに戸草が入ってくる。  互いに無頓着そうにすれ違った。  挨拶くらいしろ。 「おはようございます」  戸草は蕗島には挨拶する。 「おお、おはよう」  朝礼はとりあえず形だけのものだ。  この部屋を使っている人員は三名しかいないから。 『怪異特務課』  蕗島、名護、戸草が所属している課の名称だ。  もちろん、そんな怪しい名称は書いていなく部屋の扉についている札には『特別捜査課』とだけ書いてある。署の中でもそのように通っている。  ここは元広報室だったが、広報員は新館に転属となり旧館の隅にある古びた一室に押し込められる形となっている。  まるで、人目を忍ぶように。  ていのいい左遷(させん)先だな、などと蕗島はうそぶくがここは人外に対応する専用の部署であり怪異に関わってしまったものの身の置き場であるともいえる。  蕗島はデスクの上の書類に目を止めた。  どうやら、事件の報告書のようだ。  一晩中いた名護が作成したものだろう。  後で目を通すか、と思う。  戸草もどうやら疲れが(にじ)んでいるというか眠そうだ。  二人して何をしていたんだか、と思う。 「すみません、トイレ行ってきます」  戸草が自分のデスクの椅子から立ち上がる。 「おー、行ってこい」  蕗島は顔を上げず今日の朝刊を読んでいた。  部屋の外にはトイレと休憩所がある。  休憩所の椅子に腰かけて名護は缶コーヒーを飲んでいた。 「君もどうです?」  名護は缶を振ってみせるが戸草は断った。 「結構です」  クスリと名護は笑ってみせる。 「まあ、不味いですけどね」  飲み終わった缶をゴミ箱に捨てると名護は言った。 「喉が渇きませんか?」  それは誘惑の声にも似て。 「君が我慢して自分を否定するのはまあどうでもいいんですが。私としても戸草くんという人材を失うのは避けたいんですよ。それは忘れないでいてくださいね」  すれ違って部屋に戻っていく。  戸草はギリと唇を噛んだ。  そんなことはこっちだってわかっている。  足元に伸びる影が真っ暗に見えた。  目をそらして、ため息をつく。  口は悪いが名護のいうことは間違っていない。  逃げていても影は追いかけてくる。  それに喰らい尽くされてしまうことに自分は怯えている、と戸草は思う。  だけどどうすればいい。  心の暗がりに沈む戸草を嘲笑うように朝日はどこまでも眩しかった。
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