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花火は終わったようだったが、すでに会場から離れていたこともあり、混雑の中にいることもなくいつも通りに帰れて良かった。
涙花の家の近くの陰の中で、もう一度だけ軽くキスをして、互いに手を振った。彼の背中が見えなくなるまで見届けてから涙花は家の中へ。
両親のいつもの喧嘩を通り過ぎ、風呂場へ直行すればそこでようやく自分が思っていた以上に汗を掻いていたことに気がついた。
慣れない浴衣を脱ぎ、熱いシャワーを頭の上から一気に掛ける。ほう、と息を吐いた瞬間、涙花は両手で顔を覆った。
「やばいやばいやばいやばいっ」
いつからあんなに汗を掻いていたのか。汗臭くなかったか。もしかしたら繋いだ手も手汗がひどかったかもしれない。でも気付けなかった。
だって、だって、だって!
「あんな、ところで……っ」
シャワーの湯は熱い。でもそれ以上に浴衣の上から触られた胸がまるで別の生き物みたいに脈を打って熱を灯す。直接触られたわけじゃないのに、口から心臓が飛び出るかと思った。
イヤじゃなかった。イヤじゃなかったけれど、恥ずかしくて死ねる。キスだけでも恥ずかしいのに、それ以上なんて考えるだけでももう頭が沸騰してしまう。
でもきっと彼はキス以上のことをしたいに決まっている。したいかどうか聞いたわけではないけれど、男子ってそういうものだと思っている。そこに嫌悪感とかがあるわけではないし、当たり前のこと。
(もしさっきのが外じゃなければ、その先に進んだのかなぁ)
シャワーの温度を少し下げ、ゆっくり身体を洗い始める。相変わらず胸は熱い。直接戌介の手が身体に触れたらどうなるか検討もつかない。でもやっぱり恥ずかしくて死ねると思う。それを知ってか知らずか分からないけれど、胸に触れる以外彼は何もしてこなかった。涙花が終わりと言えば、本当にやめてくれた。きっと我慢させたと思う。それでもやめてくれた彼はきっと優しくて――――ふと思い出した。
『ワン子のことだから、とっとと手を出してると思ってさ』
前に女子三人でお泊まり会をしたとき、澪が言っていた。
話しの全貌を聞いたわけではないけれど、彼は手を出すのが早いと。
「…………」
身体を洗うスポンジを胸に滑らせる。少しずつ熱が引いていくのが分かった。
いや、あんなところで事を進められたら困るけれど、元々手を出すのが早いと聞いていると、何とも複雑な気持ちになる。
この夏休みの間に二人きりになる機会は沢山あった。きっと色々やろうと思えば出来た筈だ。しかしキイス以上のことはしなかった。胸に触れたのだって今日が初めてだ。
嬉し恥ずかしの気持ちに、じんわりと黒い色が滲んでいく。手を出されないからと言って嫌われていると思うのは戌介を信用していないことになる気がする。疑っているわけではない。彼は真っ直ぐ涙花を愛してくれている。
でも、それでもやっぱりモヤモヤは生まれてしまう。
「澪ちゃんが知ったらどう思うんだろう」
ぽつりと零れた言葉。瞬間、一気に心が黒く染まった感覚が広がった。
幼馴染みの彼女は戌介のことをよく知っている。涙花以上に沢山のことを。
(私は何も知らない)
そんなこと当たり前なのに、納得できない。自分が戌介のことを一番に知っていたい。でも知られたくないことがあるということも理解出来る。
仕方が無い。そうだ、仕方が無い。少しずつ知っていけばいい。現状を飲み込んでしまえばいい。
(分かってる、分かってるけどさ)
またシャワーの温度を上げ、身体を流すのではなく再び頭からお湯をかぶる。目を閉じてまた手のひらで顔を覆った。
まるで大雨のなか、傘もなく濡れながら途方に暮れているような気持ちになる――ううん。違う。これはそうじゃない。そうじゃなくてこれは。
『これから嫉妬する要素を消したいと思ってんだけど、どう?』
――――嫉妬だ。
戌介と付き合い始めた時、自分は何て答えただろう。でもあの頃なら嫉妬なんて考えもしなかった。
幼馴染みの澪が戌介のことを知っているなんて当たり前だし、家族のような関係であることだって理解している。
でも私だって知りたい。好きな人のことを一番に知っていたい。今まで彼がどんなことをして、どんなものに触れてきたのか、全部全部教えて欲しい。
(こんなの、我が儘だよね)
シャワーの雨が降り注ぐ。
違う。我が儘なもんか。好きな人を知りたいと思って何が悪い。だって。
「だって……好きなんだもん」
小さく呟く声は誰にも届かない。お湯に溶けて排水溝へと消えていく。それを飲み込むなんて到底無理で、それでもその声は無かったことにならない。
呟いた声、言葉はいつのまにか積もりに積もって、排水溝からも溢れて揺れる。
気持ちがパンパンに膨れ上がって、そしていつかは破裂するのだ。
「もういい」
それはまだ夏が終わらない暑さが残る日。
「澪ちゃんと付き合えば?」
二学期の始業式に。
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