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弾かれるように立ち上がった戌介は、「あの猫がっ」と舌打ちをする。そして前髪をかき上げ、だが涙花の前でうなだれるように――まるで店員が客に謝罪をしているように頭を下げた。
「はい。あの、そういう類いでも、荒れてマシタ」
「色々な人と付き合ってたの?」
「付き合ってはいないっつーか、その」
あのとき言った朱莉の『遊び人……』という台詞が頭に響く。
だがそれは過去の話だ。それを責めるつもりはひとつもない。しかしそれに繋がって不安が生まれるのは、自分はまだ手を出されていないことだ。
「涙花っ!」
「わ!」
肩をガシッと掴まれ、「涙花はマジだから!」と叫ばれる。
「涙花は遊びじゃなくて! 本気で好きで! だから大事にしてぇっつか、なんか漫画みたいな台詞しかなくて格好悪いんだけど、マジでその、我慢してる!」
「……我慢してるの?」
「してるっつの」
はー、と息を吐き出し、再びベッドに座り直す。
「大事にしてぇんだよマジで。涙花のこと、大切にしたいから」
そう言う彼の声は感情が滲んでいて、本気でそう思ってくれていることが分かる。否、今までもずっと大切にしてくれている、想ってくれていることを知っている。
でもだからこそ、どうしてか分からなかった。
「……どうしてそこまで大切にしてくれるの?」
クラス替えがあった始業式、二年生に上がった初日に告白された。
涙花は流されるように付き合い始めただけなのに、戌介はそんなことなかった。優しくて、甘やかしてくれた。それは今と同じ、あの頃から変わらない。
戌介は涙花を見つめ、それから苦笑してベッドに座ったまま手を伸ばす。そして涙花の頭を優しく撫でてから「怒るかもしれないけど」と教えてくれる。
「俺さ、中学のとき、涙花のこと見かけたんだよ」
「え……っ」
まさかの言葉に瞠目した。
だってそれはつまり。
「中学三年の最後のコンクール。いじめられてたろ、涙花」
「――――っ」
一気に身体が冷たくなる。
菜々子との件で、中学時代何があったのか知ったと言っていた。それを知った上で今も一緒にいてくれている。だがその時の自分を見られていたなんて。
いじめのきっかけを見られたわけではない。それでもあの頃を知られるというのはトラウマで、恐怖で、不安が一気に心を支配する。
(どうしようっ)
瞬間、パニックになりそうだった涙花だったが、「涙花!」と戌介は涙花を引き寄せた。
ベッドの上、戌介の脚の間に座り、彼の片方の脚に涙花の両脚を乗せて横抱きにし、ぎゅっと強く抱きしめられる。
「大丈夫。だいじょーぶ」
トン、トンと優しく背中を叩かれる。まるで子供をあやすように。
頭に頬擦りをするそれはいつもと変わらない。そう、いつもと変わらない。
涙花も戌介の胸板の制服を握りしめて顔を上げれば、ちゅっと優しく口付けられる。そして額、頬にも。
「…………」
涙花からも口端にキスをすれば、こっちもというように唇を差し出され、小さく笑ってから唇にもキスをする。
「ありがとう。大丈夫」
「ん」
嬉しそうな戌介の表情が、恐怖に染まっていた心が温かくゆるんでいく。
「中三のコンクールのときなんだけど」
もう怖がらせないようにだろう。また背中を叩きながら優しい声音で物語りを語るように話してくれる。
「みんなの輪に入れなくて、泣きそうで、でも泣くのを我慢してた」
「…………」
「そんな涙花にさ、一目惚れしたんだよ」
「え……?」
最初は言葉の意味が理解できなかった。一目惚れ? 誰が、誰に?
「最低だろ? いじめられて泣きそうなのを我慢する涙花を見て、惚れたんだ」
イタズラをバラす子供のように笑い、戌介は涙花の鼻頭にキスを落とす。
「貧乏で荒れてた俺がさ、涙花に惚れたらもう頭が涙花のことでいっぱいになって、喧嘩する余裕もなくなった。今日は何してるんだろう。元気にしてるか、泣いてないかって、そんなことばっか考えてた」
「じゃあ、戌介くんは中三の時から私のこと知ってたの?」
「知ってたっつーほどじゃねぇけどな。名前も知らなかったし。でもずっと、俺なら泣かせないのにって思ってたよ」
その言葉に開いた口が塞がらない。
まさか菜々子に会う前から、否、涙花にとってクラス替えの始業式、初対面だと思っていた彼はもうこちらのことを知っていたなんて。
どうしていじめられていたのかまでは知らなかったとはいえ、涙花が秘密にしたかったそれを知っていた。
「いじめられても我慢していたあの子を俺が幸せにするって思ってても、どこの誰だかも分からなかったし、どこに進学するのかも全然じゃん? だから高校に上がったら忘れようって思ってて」
「そしたらさ」と嬉しそうな声で続けた。
「ニャン子と遊んでる涙花を見つけた」
抱きしめる腕が強くなる。
痛いくらいのそれは、きっと彼が抱く気持ちと同じくらい痛くて、重くて、最高級の愛。
「一気に感情が溢れてさ、もう好きで好きでたまんなくて、すっげぇ愛したくてさ。だから大切にしてる。まぁ、泣かせたりしてるけど」
「そうだったんだ……」
予想外というか、思ってもみなかった返答に、どうしたらいいのか。どんな表情をすればいいのか分からない。だがそんな涙花とは逆に戌介は幸せそうに涙花の頭に頬擦りをする。
「俺、ほんっと涙花が好き。愛してる。涙花がいてくれればそれでいいって思ってる。だからちょっと調子に乗った」
また何の話だと眉を寄せれば、「さっき教室で」と言われて、そういえばそうだったと思い出す。
喧嘩していたことをすっかり忘れていた。
「涙花がいればなんでもいい。食べたいものも、選択教科も、涙花さえいれば俺は嬉しいし満足なんだよ」
「えぇ……」
どこかの詐欺師とかが言いそうな台詞なのに、彼が本気でそう思ってくれていることを知っている涙花は困ってしまう。
「戌介くんの意思は? したいこととか、そういうのは?」
「涙花と一緒なら、なんでも俺のしたいこと」
「それでいいの?」
「おう」
「なんで、そんなに私のこと好きなの……」
確かにいじめられている人を守りたいとか、大切にしたいとか、そういう庇護欲みたいなものが強い人はいるだろうけれど、それにしても彼のそれは強すぎる。
「なんでだろうなぁ」
自分にも分からないと言う戌介の声も表情も明るい。
呆れるくらい。困ってしまうくらい。
私も、笑ってしまうくらい。
「そこまで愛さなくてもいい……わけじゃないけど。嬉しいけどさ、自分のことも大切にしてほしいよ」
「うん。今日はちょっと反省した」
「ふふ」
涙花も笑って戌介の胸板に擦り寄る。
熱い体温。夏になっても恋しい、愛おしい。でももっと欲しい。
「私は戌介くんの、私以外の好きなこととか、ものとか、知っていきたいよ」
「俺も涙花の全部知りたい」
「うん。私もおんなじ」
顔を上げて彼を見る。
見つめ合うと勝手に顔が近づいて唇と唇が触れ合う。
キスをして、少しだけ音を立てて、密着する身体が足りないとわめき出す。
「沢山、話してくれてありがとう。教えてくれて、ありがとう」
「引いた?」
「分かってるくせに」
引いたなんて、そんなこと思っていないことを彼は分かっているだろう。でも分かっていても不安なことって沢山あるから。
涙花は「引かないよ」と言葉にして返した。
「むしろもっと好きになっちゃった」
「マジ?」
「マジです」
「ははっ、よかった」
不安なことは少しでも減った方がいい。
言葉にして話して、伝えて、教えて。その方がきっと互いに安心する。だから――
「ねぇ戌介くん」
「ん?」
「私ね、ずっと恥ずかしかったの。好きっていう気持ちとか、触れるとか、触れないとか」
でもね。
「もうそれ以上に、戌介くんが好きで、抱きしめて欲しい」
言いながら胸が痛くなる。
ドクドクと脈打って、身体そのものが心臓みたいで。恥ずかしくて。それでも、なぜだろう。その全身が、恥ずかしいがチリリと痛みを生んでいるのに、それが気持ちいい。
「私のこと、さわってほしいの」
震える声と、恥ずかしさで滲む涙。でも、嫌いじゃない。
「私のこと、さわって」
さわってほしい。
あますとこなく、ぜんぶ。
「あと、よかったらなんだけど――――」
見つめ合う瞳は、熱くて。
「私も、戌介くんのこと、さわっていい?」
ふれあいたい。
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