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①溢れる熱はキャパオーバー
「…………」
「…………」
沈黙が二人の間に落ちる。
静寂に包まれる図書館はクーラーが効いていて、夏の逃げ場にはぴったりな場所だ。
時折、子供たちが走る音と声。母親がそれを咎める姿があるけれど、それでもここは学校の教室より何倍も静かである。
涙花と戌介は数人で囲める大きな机を使って、夏休み宿題に取りかかっていた。
二人並んで座り、テキストを開いてシャープペンを走らせる。
本当は個別の机を使いたかったのだけれど、すでに満席。自分たちと同じように暑さを逃れ図書館で勉強する人は沢山いるのだと溜息をつきつつも、夏休みなのに真剣に勉強をする人がいることに涙花は少し感心した。
まだ夏休みに入ってから数日。去年は休みが半分くらい終わってから宿題に手を付けていた。遊ぶ友達もいないし、家に引きこもったまま。
でも今年は戌介がいる。彼と一緒にいたいという理由から、こんな早くに宿題をしているのだ。ようするに一緒にいたい口実というわけである――戌介には絶対に言わないけれど。否、そんなこと百も承知だろうから、口にしない。
「…………」
カチカチとシャープペンの芯を出し、ノートに文字を書いていく。
苦手な数学は後に回して、今は化学のプリントに挑んでいる。教科書を見ればすぐ終わるだろうと思っていたけれど、案外時間が掛かりそうだ。
でもその理由は難しいからだけではない。
トンと涙花の膝に戌介の膝が当たった。
隣同士、近いところにいるのだ。膝がぶつかってしまうこともあるだろう。
涙花はそれを避けるように足を逃がすも、再び膝と膝がぶつかり合う。ようは追い掛けられている。つまりわざとだ。
(気にしたら負け)
いま大きな机を使っているのは自分たちだけ。でも時折人が通るし、二人きりになったわけではない。放課後の教室とは違うのだ。
無言の戦いをしていた涙花だったが、ついにこちらの肩に戌介は顎を乗せ、それからヒソリと耳元で囁いた。
「順調?」
声よりも息が多いそれに、涙花はビクリと肩を揺らして押し返す。
「近いっ」
同じヒソヒソ声にしているけれど、この静かな空間では大きく響いているように感じ、辺りを見渡してしまう。
「あんまりくっつかないで」
「えー、だって静かにしないとだろ?」
「耳元で話さないと」と再び耳元で囁く。もしかしたら唇が耳朶に触れているんじゃないかと思う近さで、一瞬息が止まった。
くすぐったいだけ、と心の中、ひとりで言い訳のようなことを思う。
「くっつくのも目立つから」
「誰も見てねぇって」
「たまに人が通るし」
「そんな気になる?」
「……気になる」
最近、手を繋ぐことも周囲の目を気にするようになった。
この人が私の好きな人です! とバレるのが恥ずかしいのだ。でも手を繋ぐことは嫌いじゃ無い。むしろ好きな方で、手を繋ぎたい。でも恥ずかしい。それでもくっついていたい。
そんな面倒くさい思考がグルグル頭で回っている涙花なのだが、戌介がそれに対して苛立ったり、呆れたりする様子は全くない。むしろ楽しんでいる。
面倒な女だと思われなくてホッとしつつも、意地悪なのは少し勘弁して欲しい。
まぁ、そういうところも嫌いではないのだけれど。
「じゃあ勉強教えるのは?」
それなら少し距離が近くても変ではない、と提案してくれる戌介だが、涙花はヒュッと息を吸い、「それも、ちょっと」と首を横に振る。
いつかの日に戌介とテスト勉強をしたのだが、かなりのスパルタだった。これなら勉強の邪魔をされている方がマシだったと思うほど。
「残念」
そんな涙花の様子に戌介はクツクツ笑い、シャープペンを握っていない方の手を取り、机の上で重ね合わせた。
「でもまぁ。人の目が気になるだけで、触られること自体はイヤじゃねぇんだ?」
「――――っ!」
一気に顔が熱くなる。鏡を見なくても赤くなっていることが分かる。
見抜かれていることが分かっていても、こう言葉にされるとかなり恥ずかしい。
涙花が告白してから、二人きりになるとキスをするようになった。それがイヤだと思ったことは一度もない。むしろくっつくのは好きで、実は私って甘えたがりなんだと新たな発見があったのは最近だ。と同時に、はしたないと思われないかという不安も生まれた。
不安とは不思議なもので、一度生まれるとモヤモヤと頭と心に残る。
熱かった頬が今度は逆に冷たくなってきた気がすると。
「俺は嬉しいよ」
「…………」
「嬉しいし、可愛い」
囁かれた言葉。顔を見れば優しい表情。
その不安を瞬時に消してくるから、こんなに甘えたくなるのだと頭を抱えたくもなる。
「あり、が、とう……」
「おう」
重なり合う手がそっと握り合う。
不安から幸せに変換されるのはあっという間で、我ながら現金な女だと思うけれど、でもこの幸せな気持ちが溢れるのは嬉しいから、素直にこんな自分を受け入れる。
「どっか二人きりで勉強出来るとこねぇかな」
うーんと悩み出した戌介に、涙花もそうだなぁと考え始める。
夏休み中でも部活等で学校は開いている。だが補習授業が行われている為、空き教室は吹奏楽部に使われているだろう。
二人きりだった土手はもう暑いし、そうなると選択肢は必然と室内になる。
カラオケルームという手もあるけれど、そういう場所は戌介が好まなさそうだ。学校帰りに飲み食いをあまりしないから、なんとなくそう思っている。
(二人きりで、お金も掛からなくて、涼しい場所……)
「あ、そうだ」
「ん?」
何ですぐに思いつかなかったのだろう。
涙花は戌介に嬉しそうに言った。
「うち来る?」
「……え?」
「共働きで両親いないし、気を遣うこともないと思うよ」
挨拶する必要もないから気持ちも楽だろう。
「いやそれは、別に……」
「私の部屋、そんな散らかってないと思うんだけど、イヤだったら居間のテーブル使えばいいし」
「…………」
「戌介くん?」
どこか微妙な顔をしている彼に、涙花は首を傾げる。
我ながらいい提案だと思ったのだが、どうしたのだろう――と思ったところで、「あ」と口を開き、そして手が重なっていない方の手でその口を塞いだ。
誰もいない家。部屋。二人きり。恋人同士。その単語に追加されるとしたら?
涙花はここが図書室であることを忘れ、普通よりも少し大きな声で「ちがっ」と首を横に振った。
「そういう意味じゃ、なくてっ!」
「分かってる分かってる分かってるっ」
慌てた涙花に戌介も慌てて涙花の口を改めて塞いだ。
自分の手だけではなく、戌介の手の力も加わって、モグと言葉が出てこなくなる。
周囲を見渡してから彼は、はーっ、と息を吐き出し、それから苦笑した。
「わぁってる。まぁ別にそういう意味で誘ってくれてもいいけどさ」
「っ!」
「はいはい、落ち着け落ち着け。そんなつもりねぇから」
「あ、いや。ないわけじゃねぇけど」と言われ、口を塞がれたまま黙り込む。
その気は全くないと言われたら言われたで、ちょっと寂しいけれど、そういうつもりはあると言われたら、これはこれで固まってしまう。
別にイヤなわけじゃないけれど。でも、でもね? という感じである。
そんな涙花に戌介はどこか意地悪い笑みを浮かべ、ゆっくりと塞いでいた手を離す。もう涙花が何も言えない状態であることが分かったのだろう。
真っ赤になってしまった涙花に戌介は頬杖をつき、こちらを下から覗き込むような体勢で言った。
「でも折角だし、お邪魔させてもらってい?」
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