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遠くからセミの鳴き声が聞こえる。
歩けばその声は近くなり、でも姿は見えずにまた遠くなる。
春から夏に移りゆく姿もそんな感じ。
夏が深まって、熱湯を浴びているかのような空気が全身を包み込む。
秋が来るのはまだまだ先で、でも夏は楽しいイベントが沢山だと誰かが笑った。
その笑いにつられたようにセミも鳴いて騒がしい。
でも別に嫌いじゃない。嫌いじゃなくなった。
戌介響。
この男にほだされてから。
出会いは四月。
クラス替えがあった始業式。
高校一年はなんとか静かに終えたから、二年目も無難に過ごそうと思っていたのに、この男のせいで全てが崩れた。
生ぬるい風。
短い春は終わりを告げ、長い夏が始まった。
セミの抜け殻。
数え切れないほどのそれは、生まれてきた証。
今日も飽きずに鳴くのは愛しい貴方へ。
求愛の声の先。
もっともっと深い場所。
産土に還る前に。
もっと、鳴いて。
「戌介くん」
ねぇほら。
私が見つけ出すから。
「明日はなにしようか」
「涙花と一緒なら何でもいい」
「またそれ」
「仕方ないだろ」
「もう……じゃあそうだなぁ」
君がそこにいることを。
「宿題とか一緒にやったあと、ちょっと、イチャイチャ、する?」
「……え?」
「恥ずかしいから同じこと言わせないで」
ゆっくりやって来る秋。そして冬へと季節は移りゆく。
止められない時間に流されて、やってくる未来に抱きしめられて、私たちは今日も歩む。歩み続ける。
「めちゃくちゃ嬉しい」
君と一緒に。
「うん。私も」
こぼれ落ちるほどのこの愛に、溺れながら。
――――これ以上、私を溺愛しないで!(完)
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