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誰もいなかった家は、外と同じくらい暑い。
二階の自分の部屋へ案内し、すぐにクーラーをつける。
いつもよりも1,2度温度を下げてつければ、きっとすぐに涼しくなるだろう。
ベッドの前に小さな折りたたみのテーブルを出して座らせれば、「麦茶持ってくるね」と部屋を後にした。
トントントン、と階段を下りる音が大きく聞こえる。
冷蔵庫を開ける音。コップに氷を入れ、お茶を注ぎ、お盆に乗せる音。適当な菓子の音まで、全部の音が耳に大きく届く。自分の心臓の音まで聞こえてくるのではないだろうか。
(なんていうか、やばい)
私、若干パニクってる。
家に誘ったのは自分で、でもそういうつもりではない。戌介も分かってくれているし、互いに変なすれ違いを起こしているわけでもない。
でも自分の生活圏内に彼がいて、自分の部屋に好きな人がいて、それで緊張しないわけがない。
今まで付き合ってきた人はいるけれど、家に呼んだことは無かったし、今から思えば、そういう雰囲気になるのは避けていたような気がする。
だからこういう類いのものは初めてで、パニックになっても仕方が無いでしょうと自分自身に逆ギレしたい。
「落ち着け私」
大きく深呼吸をし、ゆっくり頷く。
だがそれで落ち着くわけがない。わけがないのだけれど、このまま慌てていても仕方が無い。なるようにしかならない。
「よし」
パン! と両手で己の頬を叩き、お盆を持つ。
気持ちは戦場へ向かう兵士だった。
「お待たせ」
部屋に戻れば、戌介はテーブルに肘をつきながらスマホをいじっていた。
どこかリラックスしているような姿に、涙花の方もホッと息が吐ける。やはり意識しすぎだ。
「おー、サンキュ」
スマホを床に下ろして戌介は笑って迎える。
「お菓子もあんじゃん」
「うちにあったものなんだけど」
「別にいいって。お前の方が気ぃ遣ってどうするよ」
「でもほらそこは、一応ね」
戌介の向かいに座って、お盆をテーブルの横の床に置く。
「好きに飲んで食べて」
そう言って顔を上げれば、戌介と目が合った。瞬間、脈が大きく跳ねて視線を逸らした。
(あ、ダメだ。やっぱ緊張する)
「しゅ、宿題の続きしよっか」
ついに心臓の音が耳の奥から聞こえ始める。気のせいだと分かっていても、身体の中で跳ねる脈は感じるし、自分の呼吸すら気になってしまう。
カバンの中から途中だった化学のプリントを出し、筆箱を置く。その間も顔は上げられなくて、そんな自分が恥ずかしい。
(これなら図書室の方が良かったかも)
誰がどう見ても意識していることはバレバレで、でも隠す方法も分からない。
(戌介くんは普通なのに)
幻滅されないかな。はしたないって思われないかな。また同じ不安に襲われる。今度こそ嫌われるかもしれない、なんて思ってしまうのだ。
中学時代、菜々子を傷つけようと思ったわけではないのに、傷つけてしまったことはまだ鮮明に覚えている。
嫌われたくない。嫌われたくないけれど、上手く自分をコントロール出来ない。何をどうすればいいのか、全然分からない。
「涙花」
「はいっ!」
突然名前を呼ばれ、ビクッ! と顔を上げる。
目が合った彼は、いつの間にか麦茶のコップを持って一口飲んでいた。
真っ直ぐこちらを見つめる瞳に、陰りはない。見つめ合ったまま戌介はお盆の上にコップを戻し、涙花に手を伸ばした。
「……っ」
反射的に目を閉じれば、ぽんぽんと優しく頭を叩かれる。そして額に知ってる柔らかさが触れた。
「涙花、目ぇ開けて」
言われてそっと、少しずつ目を開ける。また真っ直ぐな視線にドキリとするも、頭を撫でる手になだめられる。
「一時間、宿題頑張ろうぜ」
そんで、と続ける。
「一時間頑張ったら、キスさせて?」
それは一時間、涙花に手を出さないということ。
「……ん」
コクンと頷けば、「よし」と戌介は笑い、ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き混ぜられる。
「ちょっと!」
「はは! んじゃ、一時間やりますかね」
戌介もカバンからテキストを出し、広げる。小さなテーブルには、二人分のそれらで満杯だ。
涙花は手ぐしで髪の毛を直し、戌介を見つめる。
「ん? 勉強教えて欲しい?」
「いえ、結構です」
「キッパリ断るなー。そんなに怖かったか、俺」
「怖かったよ」
でも。
「ありがとう」
「……おう」
戌介はもう一度涙花の髪の毛をぐちゃぐちゃにし、それから宿題に取りかかり始める。
今度は文句は言わず髪の毛を戻して、同じようにシャープペンを手に取った。
一時間後にキス。
それはそれでドキドキするけれど、何がどうされるのかずっと緊張するよりも数倍安心できた。
その一時間の間は手を出さないという宣言だからだ。
きっと意識してしまっている涙花を落ち着かせる為に言ってくれたのだろう。そういうところは本当に優しいと思う。
(どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう)
始業式に公開告白されて、涙花が戌介に対して何も思っていないことを分かった上で付き合い、大切にしてくれた。
涙花の後輩である多田や、菜々子をシメに行くという喧嘩っぱやい面はありつつも、それらは全部涙花の為だ。
どうしてそんなに私のことが好きなんだろう。
二年生に上がるまで涙花は戌介のことを全く知らなかった。戌介だって一度も涙花と話したことはないだろう。ただ澪から話しを聞いていただけの筈だ。それなのにどうして?
(今度聞いてみよう)
ちらりと戌介を盗み見る。
教科書を睨んでいる彼に小さく微笑み、また宿題へと向き直った。
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