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⑪盾を貫く矛
~*頑丈なメンタルも顔負けです*~
会いたいけれど、会いたくない。
顔が見たいけれど、見たくない。
子供みたいに心はぐずるけれど、大人はそのままぐずっているわけにはいかないのです。
近元は職員室で大きく息を吐き、何枚か重ねたプリントを両手で持つ。
昨晩のショックからまだ立ち直ることは出来ないでいるけれど、仕事というものは待ってくれないため、いま自分に出来るかぎりの笑顔で教師をした。
ようやく放課後になって、残された勤務時間もあと少し。だがその、あと少しが山だったりするから気が抜けない。
特にこの後は彼女に会いに行かなければならないのだ。
今日は放課後、友人と勉強をするのだと終礼後に聞こえたから、きっと今も教室に残っているだろう。
追試の追試も通らなさそうなので、朱莉用に作った数学のプリントを渡しに行くというミッション。
この複雑で微妙な気持ちのまま彼女と話すのは正直辛い。だがプリントは早く渡してあげなければ。
(よし)
近元はひとつ頷いて立ち上がった。
「お疲れ様、勉強はかどってるかー?」
ガラガラと音を立てて開いたドアから顔を覗かせる。
そこには例の公開告白カップルと、その友人。そして朱莉がいた。
「あれ、近ちゃん」
「どったのー?」
キョトンとした顔と、格好良く巻かれた髪の毛。
いつもの笑顔と、切ないと泣いた顔がよみがえり、グッと胸が詰まったような感覚がする。
『好き』という感情が彼女を縛るものならば、それは心の中にとどめておきたい。だが気持ちなんて勝手に湧き上がるものだから、どうすることも出来ない。
漫画みたいだ、なんて。あーあ、酒を浴びるほど呑みたい。
「玖凪さんの追試の追試は、プリント提出にしようと思って」
出来るだけ笑顔で。いつもと同じように。意識しないよう、気をつけて。普通にプリントを手渡すだけ。
「テストじゃなくて?」
「本当はテストがいいんだけど、そうなるといつ終わるか分からないからさ」
「ま⁉ 近ちゃん、神じゃね?」
「ほんの少しバカにされてること、気付よバカ」
「戌介くんは黙ってて」
「よし! 数学はもうアタシが天下統一した! あとは古典と化学と保健と、あと何個か!」
「待って朱りん、まだそんなにあんの⁉」
「すさまじいね、朱莉ちゃん」
楽しそうな生徒たちだが、近元は出来るだけ朱莉を視界に入れずに、例のカップルの隣にしゃがむ。そして女子生徒の方の肩をトントンと叩いた。
「あれから噂も落ち着いたけど、大丈夫だったかい? 何かイヤなこと言われてない?」
遠くから様子を見たりはしていたけれど、やはり本人たちにしか分からないこともある。だが前みたいに廊下で聞くのもあれだと思い、なかなか聞けなかったのだ。
他の生徒がいない今がチャンス。どれだけ落ち込んでいようと生徒は大切にしたい。
「大丈夫。イヤな思いはしなかったよ」
その返事にホッとする。
「何かあったら相談するんだよ」
「ありがとう」
「戌介くんもね」
告白した男子生徒にもそう言うと、彼は「へーい」と片手を上げて返事をする。
今のところ何の問題なく交際を続けているようだから、このまま二人のペースで付き合っていけたらいい。
うらやましいなんて、断じて思っていない。
「じゃあ、俺はこれで」
近元は笑顔で立ち上がって、「じゃあ勉強頑張ってね」と教室を後にする。
「あいさー!」
背中から朱莉の元気な声が届くそれは、まるで風に背後から押されたようで、空になった手で拳を握る。
好きだなぁって、思う。
じんわりと、全身にしみわたる。
誰かと素敵な恋愛をして、幸せになって欲しいとか、その笑顔を大切にしてくれる人と出会えたらいいなとか、そう思えたら立派な大人なのだろうか。
(いや、俺は俺の手で幸せにしたいんだよなぁ)
俺は立派な大人なんかじゃない。教師だからって、聖人君子なわけあるか。
色々じいちゃんに鍛えられた身。メンタルも頑丈なもので、好きな人を誰かに譲るとか、絶対にイヤだ。
どうにか頑張って、自分の手で彼女を幸せにしたい。でも、じゃあどうする――――?
「近ちゃん!」
呼ばれた名前に振り返ったのは反射的なもので、それが彼女の声だったからではない。
近元は走って来た朱莉を見て、目を見開いた。勝手に口も開く。
「玖凪さん?」
「近ちゃんっ」
いまこの廊下を使っている部員はいない。遠くから部活動の音が響くけれど、二人きりだ。
朱莉は近元の前で止まり、肩に掛けたカバンを持ち直しながらこちらを見上げた。
「なした?」
「え?」
「近ちゃん、元気ない」
「――――」
言葉が出なかった。代わりに涙が溢れそうになって、「いやいや」と首を横に振る。
「なんで……」
「なんでって台詞はこっちだよ。どったの? なんかあった? イヤなことあった?」
「俺、普通じゃなかった?」
我ながら墓穴を掘るような返し。だがそれに対して朱莉は悩む様子もなく「んーん」と簡単に否定した。
「普通じゃないよ」
「全然ちがう」と笑って言う。
「だって近ちゃん、分かりやすいもん!」
「…………」
それは以前も言われたことだった。当たり前に言うけれど、そんな簡単に言えることではない。だって今までの人生、一度だって言われたことがないのだから。
下がり眉毛に騙されることのない唯一で、何よりも眩しい弾けた星(えがお)。
好きになるなという方が難しいだろ、こんなの。
「……父さんが、手の骨を折って」
口から勝手に言葉が滑り出てしまう。
「えっ! そりゃ大変だ!」
でももう、止めるつもりもない。
「俺、好きな子もいて」
「あらまぁ! それは落としにいかんとアカン!」
話は全く繋がっていないのに、朱莉はそれを突っ込むことなく、それどころか『なるほど!』と頷いてくれる。
「色々どうしようか悩んでて」
「それで落ち込んじゃった?」
「うん」
一体どちらが教師で生徒か。
「そっかぁ」
朱莉はひと時代昔の探偵のように顎に親指と人差し指を当てて、悩み出す。だがすぐに顔を上げて、「よっしゃ近ちゃん」とまた笑った。
「海行こ」
「――――え?」
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