35人が本棚に入れています
本棚に追加
⑤不審者
~*心配に大袈裟なんて、きっとない。*~
「近ちゃーん」
名前を呼ばれ、ドキリとする。
(落ち着け、落ち着け)
嫌でも速くなる鼓動を抑えるように拳を握り、振り返る。
だがそこにいたのは朱莉ではなく、数学の教科書を持った二人の女子生徒だった。
「今日はここまでにしよっか」
「遅くまで付き合わせてごめんね、近ちゃん」
「でも近ちゃんのおかげでようやく解けるようになったよ」
女子生徒は何度も解いた跡があるノートを持ち上げ、見上げるようにして眺めた。
今はアイパッドで書いたり消したりが出来る便利な道具があるけれど、自分がどこをミスしたのか、使う計算式はどんなものだったのか。それらが残るようにノートを使って勉強するようお願いしている。
こういう考えも、もう古いのだろうけれど、じいちゃん譲りの頑固な部分はなかなかに直らない。
「数学は複雑だけど、導く答えは一つだから、コツを掴めば解けるようになるよ」
「そのコツが掴めない」
「繰り返し解いて慣れていこう」
「「はーい」」
返ってきた女子生徒の良い返事に近元は笑った。
「じゃあ気をつけて帰るんだよ」
帰りの準備が終わった彼女らは立ち上がり、手を振りながら教室から出て行く。
「今日はありがとう近ちゃん」
「ばいばーい」
「はい、さようなら」
ガラガラと音を立ててドアが閉まり、教室には近元以外だれもいなくなる。
外を見ればもう外は薄暗く、部活動の楽器の音やホイッスルの音はもう聞こえない。彼らもそろそろ帰宅の時間だ。
「……はぁ」
近元は小さく息を吐き、生徒の机に突っ伏する。
今日一日長かった。いや、短かった気もする。気分の上げ下げが半端なかったから、どちらも当てはまる気がした。
(今日も玖凪さんは普通だったなぁ)
昨晩あのスーパーの裏で話したことを誰かに話している様子はなく、今日も一日いつものように元気な笑顔を振りまいていた。
(まぁ元気ならいいんだけどさ)
今日の朝、気付いてしまったことがあった。何をとは言わない。
まぁそれを意識せぬよう学校に来たのだが、彼女の顔を見れば心臓はドキリと跳ね、だが何も話しかけに来ない様子に何だかションボリして、でも話しかけられたら話しかけられたで困ってしまうからと姿勢を正し、けれど一言も話しに来ないことが寂しくて。まさに情緒不安定というやつである。
(でも帰り際にバイト頑張っての一言くらい言いたかった)
きっと今頃、ルンルンとご機嫌にレジ打ちをしているだろう。でも毎日そうもいくまい。クレーマー案件とかもあるだろうから。そういうとき、彼女はどう対応しているのだろう。
「いやいやいやいや」
そこまで突っ込んではいけないと近元は顔を上げ、首を横に振った。心配しだしたらキリがない。
はぁ、とまた溜息をついて立ち上がる。そろそろ自分も帰る支度をしなくては。
すると、ピンポンと校内放送の音が響いた。
『えー、いま、警察の方から不審者が出たとの連絡がありました。ひとりで帰ったりせず、出来るだけ同じ方向の人と一緒に帰ったり、両親に連絡するなどをしてください』
「え⁉」
突然のそれに驚き、職員室へと走って行く。開きっぱなしのドアをくぐれば、教師陣は集まっていた。
「おう、近元先生」
「お疲れさん」と、こちらに気付いた体育教師が片手を上げる。
「あのいま、不審者が出たとか」
「警察から連絡が入ったんだと。参っちまうよなぁ」
集まった教師が「集団下校的なことする?」「でも警察が回ってくれるって」「こっちから親に連絡入れるか?」など、どうしたものかと首を捻る。
「まぁ不審者っつっても、黒いコートと黒い帽子にマスクをしてた奴を見かけたっつー話だ」
「誰かが襲われたわけじゃないんですね?」
「そこまで大事じゃねぇよ」
「そっか……」
安心出来るわけではないが、それでも近元はホッと息を吐く。しかし体育教師の顔は晴れない。
「でも同一人物なのか、そこんとこ分かんねぇからな」
「同一人物?」
「ん? 今朝ニュースでやってたろ。見てなかったのか?」
「…………チョット、忙シクテ」
カチンと固まってから答えると、「寝坊か、珍しいな」と体育教師は上手く勘違いしてくれた。
「この辺じゃねぇけどよ、黒の風貌で何度も道を尋ねてつきまとう奴がおったんだと」
「春はどうしてこうも変態が増えるかね」と続いたそれに、近元は同意する。
温かくなるとなぜか不審者が増えるのはこの世の不思議だ。
(玖凪さん、大丈夫かな)
彼女のバイト先はこの辺りではない。だがもし不審者が移動していたら? 別の不審者が現れることだってある。
あそこは住宅街だから叫べば誰かが顔を出してくれるだろうけれど、いきなり車に連れ去られたら?
「おい、近元先生。どうした?」
一気に身体が冷えていくような感覚。だが危ないのは彼女だけではないし、今は学校に残っている生徒が優先だ。
「大丈夫です」
顔を覗き込んだ体育教師に下がり眉毛の笑みを作って、教師陣の会議に参加した。
それから教師陣は学校周辺を見回り、出来るだけ生徒を固めて帰らせた。特に問題は起きなかったようで安心しつつも、生まれた残業に不機嫌になるのは仕方が無い。
勘弁して欲しいと愚痴る大人たちだが、近元はひとり駆け足で「お疲れ様でした!」と学校を後にする。電車通勤のため、見回りをしていた道をまた戻っていくような形だ。
(こういうとき、車持ってたらなぁ!)
ひとりだけ生徒を贔屓するわけにはいかない。それでも、それでも!
「いらっしゃいませー」
「っ、どうも!」
いつものスーパー。
にこやかな店員によく分からない返事をし、レジへ走る。
元気な顔が見られるだけでいい。ただ無事であることを確認したい。
だが。
(あれ?)
レジが四台並ぶところを行ったり来たりし、キョロキョロと辺りを見渡す。並んでいる買い物客やレジを打っている店員がどうしたのかと視線を向けてくるけれど、それに笑みを返す余裕はない。
「玖凪さん?」
勝手に名前が口からこぼれ落ちる。
楽しげに踊るようにレジを打つ彼女の姿が、そこには無かった。
(いない?)
レジの並びを行ったり来たりして確認するも、朱莉の姿はどこにもない。
いない。いない、いない。
過剰な心配なのは分かっているけれど、それでも不安になってしまう。
バイトに来る前に不審者に会ってしまった?
いや、今ここにいないからって何かあったわけじゃない。ただ、たまたま今いないだけで。
落ち着け。
(でも)
落ち着け!
(でもっ)
でもっ!
「近ちゃん!」
グイと引かれた腕。
振り返った先にいたのは、焦ったように顔を歪めた朱莉だ。
「なした⁉ お腹でも痛いん⁉」
「玖凪……さん?」
「なんかあった⁉」
「すごい顔してる! どしたどした⁉」と、こちらを心配してくれている彼女の手に、近元は自分の手を重ねた。
力が抜けたというより、足から床に向かって力を吸収されたかのような感覚に、はあぁと大きな息を吐く。
不審者が出た。
それは些細なことのようで、でも決して他人事にしてはいけない。
もしかしてと思えば思うほど怖かった。
こんなにも不安になって、心配で、焦って、慌てて――顔を見たらホッとして。
「良かった」
守りたいとか、助けたいとか、そういう気持ちよりも、ただただ。
「よかった……」
これからもその笑顔を見たい。
ずっと隣にいて欲しいと、強く願った。
最初のコメントを投稿しよう!